他人の人生

きわめて個人的なこと

自省

依存の上手な人は依存先が多い、と何の本に書いてあったか忘れてしまった。それと似たもので、人間関係が狭いと角が鋭くなってしまう、人間関係を広げてバランスを広げよう、みたいなニュアンスの言葉も何かで読んだ。三人だと三角だからぶつかった時に痛いし頼るところがないけれど、十人だと十角形だからぶつかった時のダメージも少ない、ってこと、なるほどなと思った。私が出会うべき言葉だったと思うし、出会えて良かった言葉だと思う。こういう言葉と出会って自分の考え方をまあるくしていくことが、読書の良さでもあると思う。

昨日からある一人のことを考えていて、それに対して反省すべきなのか改善すべきなのかが分からない。振り回しているのかも振り回されているのかも分からない。とにかく愛情みたいな優しさを注がれている気分。今、この優しくされているだけの距離感が最も楽なのだろうなということには気付いていて、でもこれ以上近づくときっと寂しくなるだけだとも何となく分かっている。人と人が近づき過ぎると急に寂しくなる現象にもう名前はついているのでしょうか。

私は大変横暴な人間で、相手からの好意に気づいたらとても我儘になる。甘えさせてくれそうな人にとことん甘えてしまう。どこまで許されるのか試したくなってしまう。ギリギリのドボンの一歩手前まで綱渡りをしたくなってしまう。こんなこと書くと軽蔑されそうだけど、自分が自分を一番軽蔑しているから大丈夫。何の大丈夫かは知らんけど、大丈夫なので批判しないでください。

表情ひとつ変えずに斜め上からふってくるカワイイにもキレイにもアエナクテサミシイにも、もう慣れた。受け取る全てがカタカナで脳内変換されて、競馬の馬の名前みたいだなと思う。確か競走馬の名前はカタカナ9文字以内、もし私が競走馬に名前をつけられるならば【アエナクテサミシイ】にしようかな。そんなこと考えながらそういう言葉を全部スルーしている私は人間的にどうなんだろう。確実に問題があると思う。素直な人相手に、素直になれない。素直な人は眩し過ぎて、言葉通りに受け取っていたら溶けてなくなってしまう。

そういえば元恋人から半年振りくらいに連絡が来て、一度返信してその後は既読スルーしている。一度自分の目の前から消えたものって、想像以上にもう欲しくないんだなと思う。執着は酷いタイプだけど、上書きも早いタイプ。今のところ上書きするものもないけれど、空白で上書きもできるってことだ。冷酷だと言われたことがある。自分でもそうなのかなと思う。でも、冷酷以外の手立てがあるのなら教えてほしい。優しさなんてデタラメなんだから。完全に脈がない態度を取ることが実はとても優しい答えだったりする。冷酷と呼ばれても、私はそうしたい。完全にノーと言わないと理解できない人だって沢山いるんだって思うから。私はギリギリまで優しくされたくないから。無しなら無しって言われたいから。

たまに物凄く寂しくて時間の過ぎない夜があらわれるときがあるけれど、これも一人だからまだマシだなと思う。二人でいる時に襲ってくる寂しい夜って本当に無理。誰とでも程よい距離は必要。ワンアームは必要。バスケのディフェンスかよ。あなたは既に私の別の依存先になっているから、新しく依存先に登録できませんって言って伝わるのだろうか。意味分からんだろうな。もう素直にただ好きとか楽しいとかだけで一緒にいられるほど利口じゃないんだよな。要するに、もう恋愛はこわい。やおいかん。

but then

眠れないのは自分のせいじゃないと思う。でも、他人のせいでもない。眠れないという事実があるだけで、ただ、それだけだ。もう8時を過ぎてしまった。

星野源オールナイトニッポンをひたすら聴いていた。ラジオってこんなに笑えて楽しくて気分が晴れるんだなと思った。星野源三浦大知、YOASOBIの二人が素敵な人たちなのだということがわかる回だった。デモワングランプリの一曲一曲への四人のコメントがプロ精神と愛に溢れていて聴いているだけで嬉しかった。まったく違う方向へ進む人々が同じ目線で物事を見ようとするときに、新しいものがうまれるんだろうな。世界に才能は溢れていて、同じテーマでも考え方もアプローチの仕方も違って、「あいみょんになりたい」と歌っていたあの人もあいみょんとは違う魅力をバチバチに放っていて、だから星野源に選ばれたのだろうなと思う。

noteのこと、好きな文を書く人の更新がなくなって、もうあんまり開かなくなってしまった。とりあえずその人のアカウントが残っているうちは登録解除しないんだろうなってくらいの、そういう最後の砦みたいな繋がり。前みたいにタイムラインも追ってない。ツイッターとの連動をやめたら馬鹿みたいに平和になった。そうか、ネットで出会うってこういうことなんだなと思う。いつのまにか消えちゃうよ、みんな。知らないところでしあわせになっていて欲しい人がたくさんいる。そういう愛する人たちのことは存分に書いた。過去を振り返る文は今は気分じゃない。スキは等しく嬉しいけれど、それでも特別なスキがあることは否定できない。去年の今頃、確実に自分を救ってくれていたのは尊敬する人からのスキだったと思う。良し悪しを自分の目で決められる人。こんなこと言うのは失礼かもしれないけど、多分頑固で自分とよく似てた。

ここ数日、嬉しい報告が立て続けに舞い込んできて、心がじんわりあたたかい。幸せになるべくして生まれてきた私たちが幸せにならなくてどうする。末永くお幸せに、できればずっと笑っていてね。人の幸せはどうして涙が出るほど嬉しいのだろう。本当は今すぐぎゅってしておめでとうって言いたいのにな。一緒に飛び上がって喜びたいのにな。ラインや電話だけじゃ全て伝わらないのがもどかしくて、早く会いたいなと思う。

自分が自分でいる/自分は自分でしかいられないことに対して諦められない往生際が悪い自分はずっと居る。長所も短所も「自分らしい」もの全てが面倒だ。愛嬌、そして、許す・許される愛情を持ちたかった、もう何年も前から。あの人の人生の一大事を私が笑い飛ばした時みたいに、きっと誰かが笑い飛ばすくらいの小さな悩み。次は福岡っぽい、それとも脱・九州か。フラグばかり立ってそこに私の意思はない。あの人みたいに、結婚控えてるんで、とか、彼氏や家族のこともあるんで、とも言えない。守るものがなにもない。守りたいものも。良い時も悪い時も、生きてるんだから、生きなきゃ仕方ないね。地元の方言の「ばってん」は、but then から来てる、なんて小洒落たことを言ってたの、誰やったっけ?

いちばん届けたい相手には読ませたくない

はてぶろに書こうと思ってたものを間違えてnoteに出してしまった。はてぶろとnoteを明確に使い分けているわけではないけれど、何となく自分の中でのラインがある。

文を書く時、大抵自分に向けて書いている。でもたまに誰かひとりに向けて書くこともある。それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。天の邪鬼な性格だから、昔から、いちばん届けたい相手には自分の文なんて読んで欲しくない。嫌われたくないし、引かれたくないから。私の気持ちは私の気持ちであって、それを相手に向けるのは「言葉を突き付ける」ことと同じだと思っているから。でもそれは自己肯定感の低い人の言い分なのかもしれない。そんなこと考えもしない人だっているのだと大人になってから気づいた。目から鱗。「こんなこと言って大丈夫かな」「相手にとって迷惑じゃないかな」って考えるより先に行動して、それで上手くいっている人たちが沢山いることも知った。確かに考えてみれば、大丈夫かも迷惑かも受け取る相手が決めることであって、こっちが動かないと何も始まらない。なるほど〜と思った。関係性がなかなか発展しないのはこのせいだったのか。

好意と恐怖は紙一重だ。突然面識のない人に好意を向けられても「?」って感じだし、相手の言動や関係性など場合によっては恐怖だけど、こっちが好意を持っている人からの好意は嬉しい。そういうもの、それが世の常。なんとも当たり前だけど困難な世界だと思う。何の話かって、書いている私もよく分からない。

いい歳して恋愛で仕事に支障きたすなよと思う冷酷な自分がいる。そりゃあ恋をして浮かれたり失恋して塞いだりすることは誰にでもあるけれど、そういう支障をきたすではなく、周囲が呆れるほど恋でまわりが見えなくなって仕事を疎かにするのは、まあダルい。好きにやればいいと思うけど他人に迷惑をかけないでほしい。

まあそんなこんなで今日もだいぶ冷え込んでいる日記を書いている。今更はじめて逃げ恥を一話から観ていて、こういう恋がしたいなと思った。お互いを大切に、敬意を持って、育てていく恋。キュンが加速するって感じのやつじゃなく、じんわり心の奥からあたたまっていく感じのやつ。人間同士を大切にする関係性を築くやつ。書いてて夢みがちすぎて恥ずかしくなってきた。ドラマは夢をみせてくれるね。要するに、モテたりチヤホヤされたりしたいんじゃなくて、大切にされたいってやつだと思う。褒められるより存在を認められたいんだと思う。それは恋愛じゃないと叶えられないものなのだろうかと言われると、そうではないと思う。でも、恋愛がそういうのに一番近いというか、言い方悪いけど手っ取り早いんだよね。

恋をする気あるの?と聞かれて、分かんないと答えた。ふつーに分かんない。都合の良い手軽な駆け引きみたいなやつも面倒だし、たくさん遊びたいとかもない。次ちゃんと恋愛するんなら、結婚したい。良い人紹介するよって言われて肯定も否定もできない自分がダサかった。今自分に(用意してもらうほど)恋愛が必要なのか、本当にわからなかった。大企業勤めで年収高くて良い大学出てて資格もあって真面目な人、地元も近く。へえ〜って思った。会いたい!とも特に思わなかった。私に紹介しなくても引く手数多だろうなと思った。それが答えなのかもしれない。

もしもこの先いつか誰かと結婚することになったら、相手は私のブログやnoteを読んでも何とも思わない人が良い。もしくは、ブログやnoteを書いてることにすら興味がない人。本当は書いたもの読まれても平気な相手と一緒にいる方が良いのだろうけど、その方が性格や考え方は理解してもらえるのだろうけど、自分が書いたものを人に読まれることはとても恐ろしい。そういうつもりが無くても誰かを傷つけるかもしれない。ネットの海にこれだけの数の文を泳がせといてよく言うよって感じだけど、不特定多数に好きというのと、一人に向かって目を見て好きというのは全く違うでしょ、そうでしょ。

『21世紀の女の子』をみた

腹痛が酷くて生産性のあることが何一つできず、気がついたら夜中になっていた。終わった一日を取り戻すべく、アマプラで『21世紀の女の子』をみた。2回目。数日前に一度みたんだけど、短い作品をたくさん詰め込んだブーケみたいな映画で、次々に世界観も演じる人もかわっていって目まぐるしくて頭が追いつけない部分があったのでもう一度みようと思っていたのだ。

URL貼れてるんか??

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B087J5GGZN/ref=atv_dp_share_cu_r

せっかくだから感じたことの記録を残そうと思う。特に印象に残った作品の感想を書くね。

◼️セフレとセックスレス/ふくだももこ

好きだった。つきのさんがおすすめされてたっていうのもあってたのしみに観たんだけど、本当に引き込まれたというか、登場人物の二人の中に入り込んでいきやすかった。身体の繋がり=心の繋がりってほんとなのかな?心が先で身体があと?それとも心だけ、身体だけもあり得る?セフレから恋人に昇格することってあるのかな?っていうか昇格っていう表現自体が、セフレを良しとしている人たちに対して失礼なのかもしれない、などと考えた。

登場人物の女の子の喋り方が、まじでセフレそのものって感じの喋り方で心がギュッとした。そっけなくて冷たくて諦めに似た乾きがあって、その中に寂しさとか本音を隠してるような喋り方。あああ〜〜〜ほんとにセフレの喋り方するやん!!って心臓が痛くなった。

ギラギラのバスルームでマニキュア塗ってもらうところとか、でっかいベッドの上でお茶たてて飲むところとか、お互いがセフレ以上に片足突っ込みそうになってやめて、言葉とか態度は上滑りして、身体だけちゃんと自我保ってるみたいな、得体の知れないリアルさがあった。

こっから二人は恋人としてもう一回始まるのだろうか。始まるっぽいラストだったけど、完全に終わるのかなって感じもした。ずるい部分をお互い許し合えてるから成り立つ関係もあるんだもんね。いきなり恋人として再スタートって現実問題どうなんやろ。よく分からんけど色々考えてしまった。

木口さん最高。天下一品。

◼️out of fashion/東佳苗

主人公の女の子も映像も、可愛くて美しくて儚くて透明感あって惹かれた。絵になる女の子ってグロいよね。とくにメルヘンな衣装とか世界観にこだわってあるだけに、社会から搾取される感じとか、社会に適応していかなきゃいけない恐ろしさとか、才能を持つことと成功することがイコールじゃない現実とか、綺麗なものほど汚されやすい状況に置かれやすいとか、全て上手くいくはずない試練に直面してく感じがリアルで、うわあって思った。あのやな感じの先輩の説教聞いてる時にカラフルなグミがアスファルトにポロポロ落ちてくところとか、本当にもう。うわあ、だった。

◼️回転てん子とどりーむ母ちゃん/山中瑶子

なんかよく分からんけど独特の世界観で目が離せなかった!!でも、よく分からん!!何を言わんとしてるかは不明だけど好き!!

すごく挑発されてる気持ちになるというか、社会に対して?人間に対して?挑発してるのかなと思った。世にも奇妙な物語みたいだった。ずっとテーブルぐるぐる回し続けてて欲しい。

◼️恋愛乾燥剤/枝優花

中高生の恋愛あるある。中高生の頃ってどっちかというと男子より女子の方が大人びてるし、ませてるじゃん。実際に付き合ってみたけど、実際に恋愛してみたけど、思ってたのとなんか違う...っていうのはわかる〜と思った。

この作品の、トイカメラで撮ったみたいなレトロな感じの色合いとか風景がめちゃくちゃ好きだった。色のこと全然分からないけど、薬局で乾燥剤買うときの背景?の色合いとか、三原色大活躍!!!ってボディビルの掛け声みたいな合いの手入れたくなるくらいツボだった。ああいうのも、光とか撮り方の工夫とかたくさんしてあるのかなあ?ものをつくるってすごいね。

登場するラーメン屋のお姉さんも、本を読んでる二人組も、金髪の恋愛諭す人も、どっか異世界って感じがして、ふつーーーーに見えるのは主人公の女の子とその彼氏だけ。これも世にも奇妙な物語っぽい。

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めちゃくちゃ書き殴ったら疲れた。すごいね、今まで映画を監督で選んだり、監督に注目して物事を考えたりしたことがなかったから新鮮だった。だいたい作品の最初に監督名と作品名が出るから、はじめまして、よろしくお願いします、みたいな気持ちで作品に入っていくことができた。伊藤沙莉ちゃん好き。伊藤沙莉ちゃんが出てる作品で、写真撮られながらカーテンの側に立った沙莉ちゃんが「あったか」って笑顔になる瞬間がすごく好きだった。人の心が開く瞬間ってこんな感じなのかな?と思った。日南響子ちゃんニコラぶりに見てびっくりした。橋本愛ちゃんの出てる作品は、なんかわかる、けどなんか恥ずかしい、わかってしまう自分が恥ずかしい、みたいな感覚に襲われてなんとも言えない気持ちになった。「私は私が一番好き、そんな私を好きでいてくれるヒロトが好き」っていう最初のセリフから色々えぐられた。まじ、このまんまのことどっかで書いたことも言ったこともあって、恥ずかしくて倒れそうだった。

大森靖子みのある映画だなって思ってたらエンディング大森靖子でそれな!!!!!!となった。大森さんって世界観独特だけど、ちゃんとその作品に合わせた大森さん感出せるところがすごいなって毎回思う、『溺れるナイフ』とか『来世ちゃん』で大森さんの曲?使われてたときも、そうくるのか〜って思った(この二つは歌を先に知ってたんだけど、映画をみてここで使われてたんだ!って知って驚愕した)。

何はともあれたくさん書いて満足したので寝ます。おやすみなさい。

依存先と恋愛先を同じにしてしまった女の末路

コンビニの駐車場でいるはずのない人の影をみた。横顔がとてつもなく似ていて、別の人だと分かっているのに目が離せなくなって、ああまだこんなに固執しているのは私の方じゃないかと肩を落とした。今はもう、恋というより、依存だと思う。ううん、依存よりもっと薄くて弱い、何だろう、残り香みたいな。何年も近くで見てきていた人がある日ふっと姿を消したようなもんだから、こんなふうにふと思い出したり似ている人に重ね合わせたりしてしまうのは仕方ないのかもしれない。きっとそのうち残像すら消えてしまう。

終わってしまったことは全て終わってしまったことでしかなくて、もう改めて同じ人と恋を構築しようなんてことは一ミリも思わない。それでも、恋を構築するずっと前から精神的な拠り所にしていた部分が未だに残っていて、依存だなと思う。10代の頃に書いていた日記にすでに登場しているその人に私はそれはそれは依存してきて、別の人と付き合っていたときも心の拠り所はその人にあって、会いたいなと思えば大体夜中に会えたし、眠れない夜中にボンバーマンしようぜって急に呼び出されてのこのこ出て行ったりもしてた。今よりもっと私が狂ってた時代から私を私として扱ってくれていて、それが心地よくてずぶずぶしていた。そこに甘えすぎて、何を間違えたのか恋愛関係を構築してしまって、案の定恋愛関係にしてしまったものは壊れたらそこで終わりだ、全部終わり。そのリスクがあると知っていてずっと何年も悩んで、それなのに足を踏み入れて壊してダメにして、そして未だに残像に振り回されている。こんなの不健康だ。いつから不健康だったのだろう、私は。

スピッツが好きだったのか、その人が好きなスピッツが好きだったのかすら分からないくらいに混乱してしまうことが今もある。未だに、今日はスピッツを聞けないなっていう日がある。そんなのアリ?なしでしょ、って思う。何故かペーパードライバーの私が運転して、助手席にその人を乗せて、夜中の宮崎の田舎の道路を爆走した記憶が蘇ってなんかつらい。川をわた〜る〜って二人で大声でスピッツを歌いながら水色の車を爆走させた小雨の夜。ありえないくらい楽しかった。いつも、あ、これが幸せのピークなのかなって思ってた。そう、たぶんその頃は楽しすぎた。楽しすぎて怖かった。反動で地獄に落ちる夢をみるくらいには楽しすぎて怖かった。夢の中でリアルに血だらけになっていて、しかも傷がちゃんと痛んでいた。そのくらいリアルに傷つくのがこわかった。なくなるのがこわかった。私のことだから、恋愛にすればなくすとわかっていたのに、怖いの隣り合わせの幸せで、訳の分からないバランスをとっていた。

何度も言うけれど、恋は復活しない。私には一度壊れたものを修復できる力はない。それに、もうこりごりだと思っている。怖いなって思いながらする恋愛はしたくない。恋愛よりも大事なものがたくさんある性分で、それをなくすくらいならば恋愛なんてしない方がいいよって26年かけてやっと理解した。経験しないと理解できない不器用さに腹が立つ。

なんかもうお互い見えてるものが違うなって感じ始めてたときには遅くて、頑固な私も引き下がれなかった。結局最後までその人の前でわんわん泣くようなことはしなかったしできなかったけれど、もう少し恋愛してたかったよって振り絞って一言だけは言えた。恋愛のその先のことばかり考えないで、目の前の私を見て欲しかったよって、それまで思っていたことをその一言に込めた。そしたら、そうだね、俺たち恋愛だったよねって諦念の混ざった声で返ってきて、それはそれで痛かった。痛くて、幸せだった。ちゃんと恋愛だったんじゃんって思った。相手は恋愛の先を見たくて、次に次に進みたいと考える人だったから「俺たち恋愛だったよね」には、まだそこから先にいけない、自分たちはここ止まりなんだなっていう悲しみの音色が含まれていた。それでも私はそれすら嬉しかった。歪んでるよね。ほっとした。恋愛って思ってもらえてたんだと思った。私を抜いて進んでいくストーリーがいつも怖かった。展開がはやすぎてついていけなくて、私のポジションには誰でも代役がいるなと思っていたから、恋愛だったと言ってもらえて救われた気持ちになった。

あれこれ書いたけど、普段は何食わぬ顔で生きている。それでもたまに日常に顔を出す残像がある。長い間見てきた人を忘れるのって簡単じゃないんだなってようやく知った。こういうことすら経験しないと理解ができなくて辟易する。

たぶん、美化している。美化しているということは、過去になったということだ。大好きだった。大好きだった。でも、大好きだったのは、記憶だけ。終わって欲しくない夜の記憶は誰にでもあって、でも、それは記憶だけ。その夜を過ごした人とこの先会うことがなくても、その夜を過ごした人とこの先笑うことがなくても、見て聞いて感じて話して触れて、その夜に起こったこと全てを覚えておきたい、覚えておきたかった夜があったという記憶だけは残る、それってなんて素敵でなんて残酷なんだろうね。あけましておめでとうをいちばんに言えて幸せだったことがあるのは確かで、それを思い出と呼ぶんだろうな、そしてその思い出とやらがどんどん増えてくんだろうな、歳を重ねるのは酷だけれど尊い。本人にすら言ったことはないけれど、初めて出会ったときにその人は鍵盤に向かっていて、私はその横顔を見ながら、あ、絶対にこの人と恋に落ちるって悟った。18の私はだいぶすごい。どんなにくそやろう!って思っても、あの人のピアノの音だけは越えられません。私がどんなにこの先ピアノを弾いたとしても、練習したとしても、あの人の音色にはなりません。出会った時から負けを確信してて、才能に惚れていて、だからこそ厄介だったのだ。残像。残像。残像。よく弾いていた曲。アンドレ・ギャニオンの巡り逢い。どっからその音出るんだ?ってずっと見ていた夏の夜。結論、才能に惚れると厄介なのだ。こんなふうに書いているそばから全部過去になっているから時間はすごい。時間が解決するというのは本当だ。本当とかいてマジと読む。何の話や。未練というより、今は依存から少しずつ手を離している途中なのかもしれない。私のことだから時間が経てば忘れて、初めからなかったみたいにしてしまうのだ。

絶対に恋なんかするもんかと誓ったけれど、お互いきっと数年後には知らん誰かと一緒に笑ってるよね、それで良い。そうであってほしい。ちゃんと、図太い私でいたいし、あなたにも私の知らんところで健康に過ごしてほしい。

これから書くのは

これから書くのは私の汚い部分で、私の嫌なところで、私がもうずっと辟易していること。そして私の超個人的な話であり超個人的な見解でもある。それでも自らのこと、自分の偏った感情をブログに書くあたりが構ってちゃんだなと思うけれど、もうずっとこうやってネットに文を書いていると麻痺してしまうのだ。感覚が。それに、このブログを読んでくれている人がいるのならば、私が構ってちゃんで、うじうじと物を考えて答えを出せずに結局同じ場所にしか着地できない性格であることも薄々勘づいているだろうし、腹の底にどす黒いとまではいかなくてもグレーっぽいドロドロがあることにもとうにお気付きでしょう。知らんけど。

今年度中に一週間ほど休暇を貰えるかもしれなくて、その一週間で何をするかを考えていた。本当ならば旅行に行ったり帰省をしたり、友達に会いに行ったりしたいのだが、それは今は難しい。難しい、というより、無理だ。じゃあ、家で一週間ひとりで何をする?私の場合、一週間も家にいたら(しかも一人)、確実に死ぬ。人間として。多分社会復帰できなくなる。喋り方を忘れるし、寝て、起きて、食事をして、という生活が狂って何もかもわからなくなると思う。在宅で仕事をしている人は偉いなと思う。尊敬している。

話が逸れたが、出かけることができないのならいっそのこと副業をすれば良いのではないかと思い付いた(勤めている会社は今の期間副業可になっている)。早速、【副業・家】【副業・短期】などで検索してみる。私と似たような思考の人が多いのだろう、次々に副業の候補はあらわれた。

しかし、どれもピンと来なかった。ピンと来ないという表現は少し違うかもしれない。自分の思い描いていた副業と、実際の副業はなんとなく違った。私は副業でたくさんお金が欲しかったわけではない(もちろん、もらえるのなら欲しいよ!?)。暇つぶしをしたくて、普段の仕事とはまったく違う楽しくできる仕事や自分の趣味を活かすことができる仕事があればいいかなと思っていた。軽い考えだった。楽しいのならお金はいらないかなとも思っていた。副業は苦しんでやるものじゃないという想像があった。その上で、やりたいことが何もなかった。

まじか、と思った。私にとって仕事って仕事でしかないやんと思った。文を書くこと、鍵盤を弾くこと、それを簡単な楽譜におこすこと、本を読むこと、好きなことはあるけれど、私はそれを仕事にしようとしていないことが改めてはっきり分かった。好きなことをして苦しみたくないのだ。自分の納得することしか自信を持ってやれない。変に真面目過ぎるのだ。だから私は、今回の休暇で副業するのはやめようと思った。もしもするのならば、データ入力とか、段ボールいっぱい送られてくる内職とか、そういう本当に仕事っぽいことをしようと思った。多分しないけれど。

副業を調べているとよく出てくるのが、「自分の趣味や特技をいかしてできる!」という文言だ。そういうのを見ると、私の趣味も特技もお金にはならないなと感じる。得意な書く力をいかしてライティングの仕事をしています!という記事もみたけれど、そういうので成功している人って大体ちゃんとライターの講座を受講したり、書くための勉強をしたりしている。当たり前。仕事にするんなら、勉強しないといけないのだ。分かってはいる。でも、色んな記事を読んでいると、ライティングの仕事をしていると一括りに言っても中身は全く違うよなと思う。整った文を書いている人もいれば、これ本当にプロが書いたのか?お金もらって書いてる記事なのにこれでいいのか?と思ってしまう記事もたまーーーにある。

私は書くことが好き。書くことが好きというか、書かずにはいられない。人よりも思考のスピードが遅く、感情をまとめるのも遅い(まとまらずに暴れて終わることも多い)。だからそのぐちゃぐちゃを整理してまとめるために書く。とても身勝手な動機だ。そんな文に値打ちはないし、誰得でもない。あとから私が振り返って気持ちや思考を整理し、再確認するためだけの足跡。幼い頃から何かしらずっと書いてきたから、人より少しだけ書くのが得意だった。作文は褒められた。レポートもまわりより書くのがはやかった。それくらい。それくらいの才能。古本屋で他の本より20円くらい高く設定されている古本みたいな。古本にかわりはないのだけど。その才能を仕事にしたいとは思わないし思えない。自分のためだけに使うのにふさわしいくらいの才能。才能と呼べるかもわからない才能。

その才能を、私は適切に使っていないことがある。残念なことに、私は慣れたことに対して少しだけ要領が良い。だから、文を書く上でのウケるウケないをなんとなく判別することができるようになってしまった。

小学生の時に書いた創作童話が何かの賞をもらった。読書感想文もよく表彰されていた。何度か表彰されて、なんとなく掴んだ。【表彰されるような読書感想文】ってこんな感じだなとわかってしまった。そんな風に書こう、寄せようと思っていなくても無意識にそんな風な作文を書いてしまって(その型で書く方が楽だし)、出来上がった作文を読み返して「これ、多分入選くらいには入るな」と思っていた。実際にそういう作文は大体賞状をもらえた。ヤバい子どもだと思う。

そんな感じの人間なのだ。腹黒いと言われても仕方ない気はする。

最近のことで言えば、noteを書きながら「これはウケそうな、記事だ」みたいなことを考えてしまうようになった。noteはウケたくて書いているわけじゃないから、何かに寄せようとも、ターゲットをしぼろうともしていない(強いて言うならターゲットは夜中に起きている人)。でも、書き進めていく途中で、あ〜多分こういうのはウケるよな、とか、これは私がめっっっちゃ言いたいことを書いたけど多分そんなに読まれないなとか、勘でしかないのだけど何となく分かってきちゃうのだ。

すごく嫌われそうなことを書くけど、たとえば去年の春に出した一本のnoteは、おすすめに載るだろうなと思いながら書いた。載るだろうな、は、おこがましいか。おすすめに載れ!!!と思って、おすすめに載せるために書いたと言う方が正しいか。実際それまでの記事よりも書く時間はかかったし、そのテーマについてはずっと書きたいと思っていた内容だったので、前々から内容をあたためている部分もあった。その予想は当たったし、むしろ想像よりも多くの人に読んでもらえて、おすすめにもちゃんと(?)入って、その時思った。私、狙って書けるんじゃん。いちばん使いたくない才能と要領の良さの使い方してんじゃん、って。もちろん、書いた記事はそれなりに頑張って書いたし、気持ちを込めた。でも、下心があったのも確かで。とっっっても複雑な気持ちになった。

自分が持っている小さな才能を適切に使うってどういうこと?

今年に入って、私は既にやらかした。新年一発目に書いたnoteが、気付いたらまたもやおすすめ入りしていた。おすすめに入った時、やっぱりなと思ってしまった自分がいた。正直、その記事を書きながら、「これおすすめ入りそうだな」って思ってしまったのだ。程よい内容、程よい長さ、誰も傷つけない、程よい前向きさ。今回の記事はずっと書きたい内容でもあったし、読まれたいと思って書いた珍しい記事でもあったから、嬉しいことなのに。それでも、あ〜またやらかした、と感じてしまった。

私は私をエンタメ化したくない。それだけ思って書いてきた。noteを始めた初期の頃、ほとんどスキもつかない状態で書いていた時期、ある人から言われたことがある。あなたはセルフブランディングが下手ですね、うまくやればもっと読まれるようになるのに、と。自分でもそれはわかっていた。このことに限らず、セルフブランディングは下手だったから。それでもスタンスを変えず、自分のことばかり書いてきた。数年経って、読んでくれる人が格段に増えた今も、それは変わらない。変わらないけれど、なんだか自分がエンタメ化されているような気持ちになることがある。こういう感覚すらおこがましいのだけど。読まれるようになったと言っても過去の自分と比べてという話だし、セルフブランディングは今でも下手だ。だから、そこまで思うのは自意識過剰でしかないとは思う。それでも、これはウケる、これはウケない、みたいな偏った感覚(そもそも編集部のおすすめだって、出来が良い作品だから選ばれるとかではなくて、やっぱりどちらかというと万人ウケしそうな記事が選ばれている気はする)が変に身についてしまって、実際に予想通りおすすめに載ったりするとなんだか落ち込む、みたいな、なんとも言えないくそくそループを作り出してしまった。

私は私をエンタメ化したくない。私は私の書く力を私のために使いたい。こんなところ(ネット)でまで誰かの目を気にしたりウケるウケないとか考えて創作したいわけじゃないのだ。

私事ではあるが、昨年11月はじめに史上最大の失恋(当社比)をした。気持ちが落ち着いてきたと思っていたけれどまた気持ちがぶり返してきたり、急に絶望的な気持ちになってしまったりしていた月の後半に書いたnoteの記事が、編集部のおすすめ入りをしてしまった。もともと恋愛(それも失恋系)の記事が読まれやすいのはわかっていたはずだけど、読まれたくて書いたものじゃなかった。むしろ、こんな失恋の生傷みたいな文、読まれるのは恥ずかしいなと思う。ただただ、書かずにはいられなくて、その時の気持ちを書き殴って投稿した。そしたら、予想外に読まれた。読まれてしまった。ツイッターでもシェアされた。おすすめ入りして、note会員以外の人にもたくさん読まれた。まったくの想定外だった。そして、あ、私の失恋はエンタメ化した、と思った。

見ず知らずの人の失恋が拡散されて200もイイネと言われる世の中は狂ってる。読んでくれてありがとう。共感してくれてありがとう。涙が出たと言ってくれてありがとう。でも、恋の終わりを拡散された元恋人よ、ごめんね。もしこれを知ったらエンタメ化されたと思うかな。私は私をエンタメ化したくないんだ。個人的なことを好き勝手書いていきたい。パンクしそうな時はいつでも書きたい。自分のためだけに。そのくらいの才能だから。それに満足してるから。だって私にもしも本物の才能があったら、気合いの入った長文を書いたり歌を作ったりして、失恋なんぞ本物のエンタメにしてやりたいから。よく言われてることだよね、物書きとシンガーとは付き合うな、って。一般Peopleの私に中途半端にエンタメ化されるのなんて最悪だよね。何度も言うけれど、私は私をエンタメ化させたくない。たくさん読んでもらえて嬉しいけれど、個人的なことを安心して書く場所がある方が嬉しい。でも私は構ってちゃんだから、たまにウケるだろうな〜って思いながら書くんだろうね、まじでどうでも良いことを。ほんとに読まれたいことって、笑っちゃうほど読まれないしね。それが世の常。なんの話や。

読み返さず投稿しちゃいます。すみません。って、誰が読むかいな。明日の私が読んで?????ってなってるだろうな。おやすみなさい。

メモ(いつかまとめたい)

・そもそも、援助する、みたいな言葉は適切なのか

・援助してあげる、助けてあげる、みたいな言葉に反応してしまう、でも自分がやりたかったことはなに?助けてあげたいって思ってたっけ?どっちかと言えばみんな幸せになりたい、殺し合いしないでほしい、飢え死にしないでほしい、そういう気持ちが強かった。じゃあ、みんなの幸せってなに??現地の人たちは実際しあわせって思ってるかもよ?

・幸せとか正しさを押し付けるのがこわい

・わたしは正しさがわからない、正義ってなんだ

・「これからの正義の話をしよう」読む

・同じ援助をする人、同じ立場にいる人でもちょっとした立ち位置の違いで感じ方やアプローチが変わってる。やっぱ現地で実際に人々と触れ合ってる人の言葉が強い。すっと入ってくる。でも実際に政府や国際機関に届く声かと言われるとほぼ届いてない気がする

・最近は発展途上国とか後進国とかも言わないしさ

・ビジネスなどを持ち込んで現地の文化を壊すことへの恐れ、本当に必要なのかな?とか。宗教的、文化的な面から受け入れられづらいことってたくさんあると思うし、持ち込む側がぜんぶ正しいの?

・粗雑なプラン、援助する者の無神経さ、自信に満ちた優越感(114p)

・ほんとうに土地の事情を読み取り民意の要求水準に見合う活動をするには現地主力部隊の育成を中心にすべきは明らか(121p)←民意の要求水準について。民意の要求水準は支援する側のおおもとに届いてる?現地レベルでの実践になってるからだいぶきついのでは

・めちゃくちゃグサグサきた。これって私が仕事で失敗したやり方そのものやん。現地の人を育てなきゃ結局ハコだけつくって中身なかったら一緒やんって今更気づいたし、変に軌道修正かけて一ヶ月くらいで自分は引き上げてしまって中途半端だったなーってすごく反省。そりゃあ自分ができること自分がさっさとやったほうがその場では支援になるかもしれんけど、その後のことを考えた目線がまだまだ足りんかったな

・支援対象が国内でも国外でも人間でも動物でも大きくても小さくても基本は同じじゃないのかなってやっと気づいた。遅い

・いかに不合理にみえてもそこにはそこの、文化的アイデンティティがある(130p)それ、わかってるつもりでも現実になるとわかってないことが多すぎるんよね。まっっったく違う文化で生きてきたのに、いきなり批判されたりガッツリ変えられたりしてもは???ってなるよね

・先に武器をすてる、これは発砲以上の勇気を要する(167p)いろんな言葉が刺さりすぎてとどめにこれをくらって終わった。メンタルが。

・まるごしの安全保障

・安全保障でも人道支援でも開発協力でも日常生活でも(いきなり自分のことを語り出す)、これよ!!!先に武器を捨てられる?わたしは??捨てられん!!いつも相手がどこまで心を開いてくれるか様子見てからしか動けん!!!こんなやつが国際協力したいと思って勉強してた???けしからん!!!は?????

・私にとっての幸せが、あなたにとっての幸せじゃないし、私にとっての幸せが、世界にとっての幸せじゃない。じゃあ最大多数の最大幸福(合ってるか後から調べる)でいいの?ほんとうに???

・日本が幸せ、日本が正しい、ほんとうに???

・国際協力という広告だけの中身が伴わない実態について、ビジネスとして乗り込んでくる人は多いけれど定着せずにすぐにいなくなる、でも「これだけやりました」という報告ができれば形として残っちゃう、そういう形は多くは残さずとも現地で支援とも思ってないうちに支援できちゃえる人がいる、これって多分その人の人柄とかもあるんだろうな、言ってることの意味がわからんくなってきた

・震災の時もあったけど、物資を送ったり安易なボランティアをしたりして逆に迷惑かけたり傷つけたりするっている例もあるでしょ、なんかそういうの頭でっかちでふわっと知ってると実際にことが起こったときに何も動けなくなっちゃってそこも罪悪感のひとつなのよ 友達が避難所生活してるのにその様子を聞くことしかできなかった21の私よ

・これを本では「無邪気な思い上がり」「善意で行われる迷惑」と表現してある。これがいちばんタチ悪い実際

・本の終わりに「われわれとて不動の自信を持って現地活動をしているわけではない」って書いてあった。「現地は外国人の活動場所ではなく、ともにあゆむ協力現場である」このスタンスは私の実生活にも役立つ言葉だと思った。

・この一冊だけでも考えがまとまらんでわやわやしてるけど一冊だけで判断するのはよくないと思うから他にも本を読む

緒方貞子さん「私の仕事」読む

・まとまらなくなったし眠くなった。心だけモヤモヤしとる

・読んだ本に感化されてうるさくなりがち