他人の人生

きわめて個人的なこと

私の矛盾について

とてもせっかちで物事をぱっぱっと進めたい派なのに、人と普通に打ち解けるまでに通常の倍はかかる。

一目惚れして恋におちたりしてみたいのに、その人を知ってから数年たたないと恋みたいな感情は生まれない。

人に指示されたり命令で動いたりするのは嫌いなのに、自分は歯車としての性能は悪くないと思っている。

お金持ちだとか収入の高さとかよりも、収入と支出のバランスが取れているかお金に対してリスク管理があるかの方が気になるのに、それでも正社員という文字に魅力を感じてしまう。

私はまだ27歳なのに、とも思うし、もう27歳だ、とも思う。

年上の人にベタベタに甘えたいけれど、後輩をベタベタに甘やかしたり見守ったりする方が向いているような気がする。

やりたいこと、やるべきこと、好きなこと、向いていることがそれぞれ違う方向を向いていて、どこに向かって進むべきかが分からない。

やりたいことをやれる人生は幸せだろう。でも、やりたいことだけで現実問題食べていけるのだろうか。

やるべきことをやって誰かを守れる人生は幸せだろう。でも、やるべきことだけにすり減ってしまって本当に楽しいのだろうか。

好きなことで生きていける人生は幸せだろう。でも、現実はそんなにきっと甘くない。

向いていることで生きていければかなり楽だろう。でも、それだけで生きるのは寂しくないだろうか。

矛盾だらけが世の中で、矛盾だらけが私なのだ。お茶と名乗っているけれどコーヒーばかり飲んでいるので、最近はユーザー名を「焙煎」とかにしようかなって思っている。会ったこともない・今後(も)会うことがないかもしれないネットの世界のみんなが明日も笑っていますように。今日はほんの少し自分の心に余裕があるので誰かの幸せをほんの少し願ってみる。たくさん願えるほど善人ではないけれど、自分の好きな人と自分の幸せはいくらでも願いたい。

一筋縄でいかない人生、よきかな。

あたまでっかち あなたせっかち

思うところが多過ぎて、考えることがありすぎて、思考回路が壊れた。自分のためにやりたいことが沢山あるはずなのに、ひとつひとつの作業の途中で色々が舞い込んできてその度に手を止めて、を繰り返して結果自分のことはなにひとつ解決していない。

愛用のスニーカーがトイレに流れる夢をみた。悪夢だな〜と思いながら、それでも一日を何事もなく終えようとしていたのだけれど、一日の終わりにそれはそれは最悪な出来事が起こってあ〜夢の通りだ〜と思った。

その翌日はゾンビみたいな人間みたいなよく分からないものに追いかけられて逃げ回るという、これまた悪夢をみた。寝ている時でさえ落ち着かない。

とりあえずメンタルビッチをやめたい。他人の気持ちがこわい〜ぴえん〜とか言っているものの、その種を蒔いているのは自分だという説も否定できない。昔から分かっているんだけど八方美人しちゃう。しかもビジネス八方美人だから、ビジネス用自分を気に入られて、普段用自分とのギャップに引かれてジ・エンドパターンが多すぎる。いけそうでいけない女をやめる。ヘラヘラしてるから舐められるんぞ。いけなさそうでいけない女になる。

いつもは何も見えなかった関係に、突如性別の壁がダンッと立ちはだかる瞬間が生々し過ぎてきもちわる、と思うくらいなら、初めから自分が女性として扱われないように細心の注意を払えば解決するかもしれない。リスクマネジメント。言葉の使い方合ってる?

とは言え、自分の中で「大丈夫な人」と「大丈夫じゃない人」がいて、感覚でそれは勝手に分類されていて、それは「生理的に無理か無理じゃないか」っていうところとかかわるのかなあ?私という人間に対して言葉をくれる人のことは好き。私の年齢とか性別とかそういうのに付け込んでくる人は嫌い。でも可愛いと言われるとなんだかんだ嬉しい。自分の芯がどこにもない。あなたは家でも元気で明るくてずーっと働き回ってるの?部屋ピカピカそう、とかってよく言われる。私家ではこんなんじゃないです、実はこんな性格じゃないんですと言ってもなかなか信じてもらえない。「元気ないことある?疲れてることある?ないでしょ?」と言われたのにはさすがに笑うしかなかった。私はスーパーサイヤ人か。

良い時も悪い時も、今はそういう時だと思ってコツコツ生きるしかないし、実際そうやって生活してきた。私は運が良いなと感じることが多く、わりかし好きな人生だなと思う。足りないものに目を向ければいくらでもあるけれど、それよりも私を大事にしてくれる人のことを私も大事にしたいなと思うし、実は他のことはそこまで大切ではなく、それだけで良いのだとも思う。でもぶっちゃけ五億円欲しい。

自省

依存の上手な人は依存先が多い、と何の本に書いてあったか忘れてしまった。それと似たもので、人間関係が狭いと角が鋭くなってしまう、人間関係を広げてバランスを広げよう、みたいなニュアンスの言葉も何かで読んだ。三人だと三角だからぶつかった時に痛いし頼るところがないけれど、十人だと十角形だからぶつかった時のダメージも少ない、ってこと、なるほどなと思った。私が出会うべき言葉だったと思うし、出会えて良かった言葉だと思う。こういう言葉と出会って自分の考え方をまあるくしていくことが、読書の良さでもあると思う。

昨日からある一人のことを考えていて、それに対して反省すべきなのか改善すべきなのかが分からない。振り回しているのかも振り回されているのかも分からない。とにかく愛情みたいな優しさを注がれている気分。今、この優しくされているだけの距離感が最も楽なのだろうなということには気付いていて、でもこれ以上近づくときっと寂しくなるだけだとも何となく分かっている。人と人が近づき過ぎると急に寂しくなる現象にもう名前はついているのでしょうか。

私は大変横暴な人間で、相手からの好意に気づいたらとても我儘になる。甘えさせてくれそうな人にとことん甘えてしまう。どこまで許されるのか試したくなってしまう。ギリギリのドボンの一歩手前まで綱渡りをしたくなってしまう。こんなこと書くと軽蔑されそうだけど、自分が自分を一番軽蔑しているから大丈夫。何の大丈夫かは知らんけど、大丈夫なので批判しないでください。

表情ひとつ変えずに斜め上からふってくるカワイイにもキレイにもアエナクテサミシイにも、もう慣れた。受け取る全てがカタカナで脳内変換されて、競馬の馬の名前みたいだなと思う。確か競走馬の名前はカタカナ9文字以内、もし私が競走馬に名前をつけられるならば【アエナクテサミシイ】にしようかな。そんなこと考えながらそういう言葉を全部スルーしている私は人間的にどうなんだろう。確実に問題があると思う。素直な人相手に、素直になれない。素直な人は眩し過ぎて、言葉通りに受け取っていたら溶けてなくなってしまう。

そういえば元恋人から半年振りくらいに連絡が来て、一度返信してその後は既読スルーしている。一度自分の目の前から消えたものって、想像以上にもう欲しくないんだなと思う。執着は酷いタイプだけど、上書きも早いタイプ。今のところ上書きするものもないけれど、空白で上書きもできるってことだ。冷酷だと言われたことがある。自分でもそうなのかなと思う。でも、冷酷以外の手立てがあるのなら教えてほしい。優しさなんてデタラメなんだから。完全に脈がない態度を取ることが実はとても優しい答えだったりする。冷酷と呼ばれても、私はそうしたい。完全にノーと言わないと理解できない人だって沢山いるんだって思うから。私はギリギリまで優しくされたくないから。無しなら無しって言われたいから。

たまに物凄く寂しくて時間の過ぎない夜があらわれるときがあるけれど、これも一人だからまだマシだなと思う。二人でいる時に襲ってくる寂しい夜って本当に無理。誰とでも程よい距離は必要。ワンアームは必要。バスケのディフェンスかよ。あなたは既に私の別の依存先になっているから、新しく依存先に登録できませんって言って伝わるのだろうか。意味分からんだろうな。もう素直にただ好きとか楽しいとかだけで一緒にいられるほど利口じゃないんだよな。要するに、もう恋愛はこわい。やおいかん。

but then

眠れないのは自分のせいじゃないと思う。でも、他人のせいでもない。眠れないという事実があるだけで、ただ、それだけだ。もう8時を過ぎてしまった。

星野源オールナイトニッポンをひたすら聴いていた。ラジオってこんなに笑えて楽しくて気分が晴れるんだなと思った。星野源三浦大知、YOASOBIの二人が素敵な人たちなのだということがわかる回だった。デモワングランプリの一曲一曲への四人のコメントがプロ精神と愛に溢れていて聴いているだけで嬉しかった。まったく違う方向へ進む人々が同じ目線で物事を見ようとするときに、新しいものがうまれるんだろうな。世界に才能は溢れていて、同じテーマでも考え方もアプローチの仕方も違って、「あいみょんになりたい」と歌っていたあの人もあいみょんとは違う魅力をバチバチに放っていて、だから星野源に選ばれたのだろうなと思う。

noteのこと、好きな文を書く人の更新がなくなって、もうあんまり開かなくなってしまった。とりあえずその人のアカウントが残っているうちは登録解除しないんだろうなってくらいの、そういう最後の砦みたいな繋がり。前みたいにタイムラインも追ってない。ツイッターとの連動をやめたら馬鹿みたいに平和になった。そうか、ネットで出会うってこういうことなんだなと思う。いつのまにか消えちゃうよ、みんな。知らないところでしあわせになっていて欲しい人がたくさんいる。そういう愛する人たちのことは存分に書いた。過去を振り返る文は今は気分じゃない。スキは等しく嬉しいけれど、それでも特別なスキがあることは否定できない。去年の今頃、確実に自分を救ってくれていたのは尊敬する人からのスキだったと思う。良し悪しを自分の目で決められる人。こんなこと言うのは失礼かもしれないけど、多分頑固で自分とよく似てた。

ここ数日、嬉しい報告が立て続けに舞い込んできて、心がじんわりあたたかい。幸せになるべくして生まれてきた私たちが幸せにならなくてどうする。末永くお幸せに、できればずっと笑っていてね。人の幸せはどうして涙が出るほど嬉しいのだろう。本当は今すぐぎゅってしておめでとうって言いたいのにな。一緒に飛び上がって喜びたいのにな。ラインや電話だけじゃ全て伝わらないのがもどかしくて、早く会いたいなと思う。

自分が自分でいる/自分は自分でしかいられないことに対して諦められない往生際が悪い自分はずっと居る。長所も短所も「自分らしい」もの全てが面倒だ。愛嬌、そして、許す・許される愛情を持ちたかった、もう何年も前から。あの人の人生の一大事を私が笑い飛ばした時みたいに、きっと誰かが笑い飛ばすくらいの小さな悩み。次は福岡っぽい、それとも脱・九州か。フラグばかり立ってそこに私の意思はない。あの人みたいに、結婚控えてるんで、とか、彼氏や家族のこともあるんで、とも言えない。守るものがなにもない。守りたいものも。良い時も悪い時も、生きてるんだから、生きなきゃ仕方ないね。地元の方言の「ばってん」は、but then から来てる、なんて小洒落たことを言ってたの、誰やったっけ?

いちばん届けたい相手には読ませたくない

はてぶろに書こうと思ってたものを間違えてnoteに出してしまった。はてぶろとnoteを明確に使い分けているわけではないけれど、何となく自分の中でのラインがある。

文を書く時、大抵自分に向けて書いている。でもたまに誰かひとりに向けて書くこともある。それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。天の邪鬼な性格だから、昔から、いちばん届けたい相手には自分の文なんて読んで欲しくない。嫌われたくないし、引かれたくないから。私の気持ちは私の気持ちであって、それを相手に向けるのは「言葉を突き付ける」ことと同じだと思っているから。でもそれは自己肯定感の低い人の言い分なのかもしれない。そんなこと考えもしない人だっているのだと大人になってから気づいた。目から鱗。「こんなこと言って大丈夫かな」「相手にとって迷惑じゃないかな」って考えるより先に行動して、それで上手くいっている人たちが沢山いることも知った。確かに考えてみれば、大丈夫かも迷惑かも受け取る相手が決めることであって、こっちが動かないと何も始まらない。なるほど〜と思った。関係性がなかなか発展しないのはこのせいだったのか。

好意と恐怖は紙一重だ。突然面識のない人に好意を向けられても「?」って感じだし、相手の言動や関係性など場合によっては恐怖だけど、こっちが好意を持っている人からの好意は嬉しい。そういうもの、それが世の常。なんとも当たり前だけど困難な世界だと思う。何の話かって、書いている私もよく分からない。

いい歳して恋愛で仕事に支障きたすなよと思う冷酷な自分がいる。そりゃあ恋をして浮かれたり失恋して塞いだりすることは誰にでもあるけれど、そういう支障をきたすではなく、周囲が呆れるほど恋でまわりが見えなくなって仕事を疎かにするのは、まあダルい。好きにやればいいと思うけど他人に迷惑をかけないでほしい。

まあそんなこんなで今日もだいぶ冷え込んでいる日記を書いている。今更はじめて逃げ恥を一話から観ていて、こういう恋がしたいなと思った。お互いを大切に、敬意を持って、育てていく恋。キュンが加速するって感じのやつじゃなく、じんわり心の奥からあたたまっていく感じのやつ。人間同士を大切にする関係性を築くやつ。書いてて夢みがちすぎて恥ずかしくなってきた。ドラマは夢をみせてくれるね。要するに、モテたりチヤホヤされたりしたいんじゃなくて、大切にされたいってやつだと思う。褒められるより存在を認められたいんだと思う。それは恋愛じゃないと叶えられないものなのだろうかと言われると、そうではないと思う。でも、恋愛がそういうのに一番近いというか、言い方悪いけど手っ取り早いんだよね。

恋をする気あるの?と聞かれて、分かんないと答えた。ふつーに分かんない。都合の良い手軽な駆け引きみたいなやつも面倒だし、たくさん遊びたいとかもない。次ちゃんと恋愛するんなら、結婚したい。良い人紹介するよって言われて肯定も否定もできない自分がダサかった。今自分に(用意してもらうほど)恋愛が必要なのか、本当にわからなかった。大企業勤めで年収高くて良い大学出てて資格もあって真面目な人、地元も近く。へえ〜って思った。会いたい!とも特に思わなかった。私に紹介しなくても引く手数多だろうなと思った。それが答えなのかもしれない。

もしもこの先いつか誰かと結婚することになったら、相手は私のブログやnoteを読んでも何とも思わない人が良い。もしくは、ブログやnoteを書いてることにすら興味がない人。本当は書いたもの読まれても平気な相手と一緒にいる方が良いのだろうけど、その方が性格や考え方は理解してもらえるのだろうけど、自分が書いたものを人に読まれることはとても恐ろしい。そういうつもりが無くても誰かを傷つけるかもしれない。ネットの海にこれだけの数の文を泳がせといてよく言うよって感じだけど、不特定多数に好きというのと、一人に向かって目を見て好きというのは全く違うでしょ、そうでしょ。

『21世紀の女の子』をみた

腹痛が酷くて生産性のあることが何一つできず、気がついたら夜中になっていた。終わった一日を取り戻すべく、アマプラで『21世紀の女の子』をみた。2回目。数日前に一度みたんだけど、短い作品をたくさん詰め込んだブーケみたいな映画で、次々に世界観も演じる人もかわっていって目まぐるしくて頭が追いつけない部分があったのでもう一度みようと思っていたのだ。

URL貼れてるんか??

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B087J5GGZN/ref=atv_dp_share_cu_r

せっかくだから感じたことの記録を残そうと思う。特に印象に残った作品の感想を書くね。

◼️セフレとセックスレス/ふくだももこ

好きだった。つきのさんがおすすめされてたっていうのもあってたのしみに観たんだけど、本当に引き込まれたというか、登場人物の二人の中に入り込んでいきやすかった。身体の繋がり=心の繋がりってほんとなのかな?心が先で身体があと?それとも心だけ、身体だけもあり得る?セフレから恋人に昇格することってあるのかな?っていうか昇格っていう表現自体が、セフレを良しとしている人たちに対して失礼なのかもしれない、などと考えた。

登場人物の女の子の喋り方が、まじでセフレそのものって感じの喋り方で心がギュッとした。そっけなくて冷たくて諦めに似た乾きがあって、その中に寂しさとか本音を隠してるような喋り方。あああ〜〜〜ほんとにセフレの喋り方するやん!!って心臓が痛くなった。

ギラギラのバスルームでマニキュア塗ってもらうところとか、でっかいベッドの上でお茶たてて飲むところとか、お互いがセフレ以上に片足突っ込みそうになってやめて、言葉とか態度は上滑りして、身体だけちゃんと自我保ってるみたいな、得体の知れないリアルさがあった。

こっから二人は恋人としてもう一回始まるのだろうか。始まるっぽいラストだったけど、完全に終わるのかなって感じもした。ずるい部分をお互い許し合えてるから成り立つ関係もあるんだもんね。いきなり恋人として再スタートって現実問題どうなんやろ。よく分からんけど色々考えてしまった。

木口さん最高。天下一品。

◼️out of fashion/東佳苗

主人公の女の子も映像も、可愛くて美しくて儚くて透明感あって惹かれた。絵になる女の子ってグロいよね。とくにメルヘンな衣装とか世界観にこだわってあるだけに、社会から搾取される感じとか、社会に適応していかなきゃいけない恐ろしさとか、才能を持つことと成功することがイコールじゃない現実とか、綺麗なものほど汚されやすい状況に置かれやすいとか、全て上手くいくはずない試練に直面してく感じがリアルで、うわあって思った。あのやな感じの先輩の説教聞いてる時にカラフルなグミがアスファルトにポロポロ落ちてくところとか、本当にもう。うわあ、だった。

◼️回転てん子とどりーむ母ちゃん/山中瑶子

なんかよく分からんけど独特の世界観で目が離せなかった!!でも、よく分からん!!何を言わんとしてるかは不明だけど好き!!

すごく挑発されてる気持ちになるというか、社会に対して?人間に対して?挑発してるのかなと思った。世にも奇妙な物語みたいだった。ずっとテーブルぐるぐる回し続けてて欲しい。

◼️恋愛乾燥剤/枝優花

中高生の恋愛あるある。中高生の頃ってどっちかというと男子より女子の方が大人びてるし、ませてるじゃん。実際に付き合ってみたけど、実際に恋愛してみたけど、思ってたのとなんか違う...っていうのはわかる〜と思った。

この作品の、トイカメラで撮ったみたいなレトロな感じの色合いとか風景がめちゃくちゃ好きだった。色のこと全然分からないけど、薬局で乾燥剤買うときの背景?の色合いとか、三原色大活躍!!!ってボディビルの掛け声みたいな合いの手入れたくなるくらいツボだった。ああいうのも、光とか撮り方の工夫とかたくさんしてあるのかなあ?ものをつくるってすごいね。

登場するラーメン屋のお姉さんも、本を読んでる二人組も、金髪の恋愛諭す人も、どっか異世界って感じがして、ふつーーーーに見えるのは主人公の女の子とその彼氏だけ。これも世にも奇妙な物語っぽい。

____

めちゃくちゃ書き殴ったら疲れた。すごいね、今まで映画を監督で選んだり、監督に注目して物事を考えたりしたことがなかったから新鮮だった。だいたい作品の最初に監督名と作品名が出るから、はじめまして、よろしくお願いします、みたいな気持ちで作品に入っていくことができた。伊藤沙莉ちゃん好き。伊藤沙莉ちゃんが出てる作品で、写真撮られながらカーテンの側に立った沙莉ちゃんが「あったか」って笑顔になる瞬間がすごく好きだった。人の心が開く瞬間ってこんな感じなのかな?と思った。日南響子ちゃんニコラぶりに見てびっくりした。橋本愛ちゃんの出てる作品は、なんかわかる、けどなんか恥ずかしい、わかってしまう自分が恥ずかしい、みたいな感覚に襲われてなんとも言えない気持ちになった。「私は私が一番好き、そんな私を好きでいてくれるヒロトが好き」っていう最初のセリフから色々えぐられた。まじ、このまんまのことどっかで書いたことも言ったこともあって、恥ずかしくて倒れそうだった。

大森靖子みのある映画だなって思ってたらエンディング大森靖子でそれな!!!!!!となった。大森さんって世界観独特だけど、ちゃんとその作品に合わせた大森さん感出せるところがすごいなって毎回思う、『溺れるナイフ』とか『来世ちゃん』で大森さんの曲?使われてたときも、そうくるのか〜って思った(この二つは歌を先に知ってたんだけど、映画をみてここで使われてたんだ!って知って驚愕した)。

何はともあれたくさん書いて満足したので寝ます。おやすみなさい。

依存先と恋愛先を同じにしてしまった女の末路

コンビニの駐車場でいるはずのない人の影をみた。横顔がとてつもなく似ていて、別の人だと分かっているのに目が離せなくなって、ああまだこんなに固執しているのは私の方じゃないかと肩を落とした。今はもう、恋というより、依存だと思う。ううん、依存よりもっと薄くて弱い、何だろう、残り香みたいな。何年も近くで見てきていた人がある日ふっと姿を消したようなもんだから、こんなふうにふと思い出したり似ている人に重ね合わせたりしてしまうのは仕方ないのかもしれない。きっとそのうち残像すら消えてしまう。

終わってしまったことは全て終わってしまったことでしかなくて、もう改めて同じ人と恋を構築しようなんてことは一ミリも思わない。それでも、恋を構築するずっと前から精神的な拠り所にしていた部分が未だに残っていて、依存だなと思う。10代の頃に書いていた日記にすでに登場しているその人に私はそれはそれは依存してきて、別の人と付き合っていたときも心の拠り所はその人にあって、会いたいなと思えば大体夜中に会えたし、眠れない夜中にボンバーマンしようぜって急に呼び出されてのこのこ出て行ったりもしてた。今よりもっと私が狂ってた時代から私を私として扱ってくれていて、それが心地よくてずぶずぶしていた。そこに甘えすぎて、何を間違えたのか恋愛関係を構築してしまって、案の定恋愛関係にしてしまったものは壊れたらそこで終わりだ、全部終わり。そのリスクがあると知っていてずっと何年も悩んで、それなのに足を踏み入れて壊してダメにして、そして未だに残像に振り回されている。こんなの不健康だ。いつから不健康だったのだろう、私は。

スピッツが好きだったのか、その人が好きなスピッツが好きだったのかすら分からないくらいに混乱してしまうことが今もある。未だに、今日はスピッツを聞けないなっていう日がある。そんなのアリ?なしでしょ、って思う。何故かペーパードライバーの私が運転して、助手席にその人を乗せて、夜中の宮崎の田舎の道路を爆走した記憶が蘇ってなんかつらい。川をわた〜る〜って二人で大声でスピッツを歌いながら水色の車を爆走させた小雨の夜。ありえないくらい楽しかった。いつも、あ、これが幸せのピークなのかなって思ってた。そう、たぶんその頃は楽しすぎた。楽しすぎて怖かった。反動で地獄に落ちる夢をみるくらいには楽しすぎて怖かった。夢の中でリアルに血だらけになっていて、しかも傷がちゃんと痛んでいた。そのくらいリアルに傷つくのがこわかった。なくなるのがこわかった。私のことだから、恋愛にすればなくすとわかっていたのに、怖いの隣り合わせの幸せで、訳の分からないバランスをとっていた。

何度も言うけれど、恋は復活しない。私には一度壊れたものを修復できる力はない。それに、もうこりごりだと思っている。怖いなって思いながらする恋愛はしたくない。恋愛よりも大事なものがたくさんある性分で、それをなくすくらいならば恋愛なんてしない方がいいよって26年かけてやっと理解した。経験しないと理解できない不器用さに腹が立つ。

なんかもうお互い見えてるものが違うなって感じ始めてたときには遅くて、頑固な私も引き下がれなかった。結局最後までその人の前でわんわん泣くようなことはしなかったしできなかったけれど、もう少し恋愛してたかったよって振り絞って一言だけは言えた。恋愛のその先のことばかり考えないで、目の前の私を見て欲しかったよって、それまで思っていたことをその一言に込めた。そしたら、そうだね、俺たち恋愛だったよねって諦念の混ざった声で返ってきて、それはそれで痛かった。痛くて、幸せだった。ちゃんと恋愛だったんじゃんって思った。相手は恋愛の先を見たくて、次に次に進みたいと考える人だったから「俺たち恋愛だったよね」には、まだそこから先にいけない、自分たちはここ止まりなんだなっていう悲しみの音色が含まれていた。それでも私はそれすら嬉しかった。歪んでるよね。ほっとした。恋愛って思ってもらえてたんだと思った。私を抜いて進んでいくストーリーがいつも怖かった。展開がはやすぎてついていけなくて、私のポジションには誰でも代役がいるなと思っていたから、恋愛だったと言ってもらえて救われた気持ちになった。

あれこれ書いたけど、普段は何食わぬ顔で生きている。それでもたまに日常に顔を出す残像がある。長い間見てきた人を忘れるのって簡単じゃないんだなってようやく知った。こういうことすら経験しないと理解ができなくて辟易する。

たぶん、美化している。美化しているということは、過去になったということだ。大好きだった。大好きだった。でも、大好きだったのは、記憶だけ。終わって欲しくない夜の記憶は誰にでもあって、でも、それは記憶だけ。その夜を過ごした人とこの先会うことがなくても、その夜を過ごした人とこの先笑うことがなくても、見て聞いて感じて話して触れて、その夜に起こったこと全てを覚えておきたい、覚えておきたかった夜があったという記憶だけは残る、それってなんて素敵でなんて残酷なんだろうね。あけましておめでとうをいちばんに言えて幸せだったことがあるのは確かで、それを思い出と呼ぶんだろうな、そしてその思い出とやらがどんどん増えてくんだろうな、歳を重ねるのは酷だけれど尊い。本人にすら言ったことはないけれど、初めて出会ったときにその人は鍵盤に向かっていて、私はその横顔を見ながら、あ、絶対にこの人と恋に落ちるって悟った。18の私はだいぶすごい。どんなにくそやろう!って思っても、あの人のピアノの音だけは越えられません。私がどんなにこの先ピアノを弾いたとしても、練習したとしても、あの人の音色にはなりません。出会った時から負けを確信してて、才能に惚れていて、だからこそ厄介だったのだ。残像。残像。残像。よく弾いていた曲。アンドレ・ギャニオンの巡り逢い。どっからその音出るんだ?ってずっと見ていた夏の夜。結論、才能に惚れると厄介なのだ。こんなふうに書いているそばから全部過去になっているから時間はすごい。時間が解決するというのは本当だ。本当とかいてマジと読む。何の話や。未練というより、今は依存から少しずつ手を離している途中なのかもしれない。私のことだから時間が経てば忘れて、初めからなかったみたいにしてしまうのだ。

絶対に恋なんかするもんかと誓ったけれど、お互いきっと数年後には知らん誰かと一緒に笑ってるよね、それで良い。そうであってほしい。ちゃんと、図太い私でいたいし、あなたにも私の知らんところで健康に過ごしてほしい。