他人の人生

きわめて個人的なこと

あなた

私はつくづく欲張りで、自分にないものばかりを欲しがる日々を繰り返してきて、「羨ましい」と「憧れ」をガソリンに体と心を動かして、何の解決にもならない雑文を書いて、そういう生活に結構満足してしまっていた。それでもたまにふっと立ち止まって胸に手を当てて考えた時、空っぽのすっからかんになってしまった気がして、いや、現状空っぽのすっからかんであるような気がして、その事実に怯えてしまう。好きなものより、怖いものの方が多い。分かり合えたと一瞬でも思ったら、そこから依存が始まる気がして。恋愛は安心とは別物で、前にもどこかに書いた、恋人がいることと、眠れない夜に「眠れない」と言える相手がいることは別物だということ、究極、人はひとりだということ、ここ数日間で噛み締めている。

あの時手を離さなければ、あの時手を掴んでいれば、今頃手にしていたであろう安心について考えていた。懐かしい顔ぶれ、インスタのストーリーズ。私の咲かない場所。もう二度と会うことはない人。きっと忘れられている名前。どこで何をしているかも分からない過去の憧れ。

このままで良いのだろうかと、何万回思っただろう。遠くまで見渡すことができない恋愛は楽しくて心細い。期間限定の「WE」だと自覚するたびに恐ろしい。少しでも未来をチラつかせるとダメになってしまう。悪いこと一つもしていないのにやりづらい恋愛、私、何がいけなかったのだろう。うまくいかないと、仕事のせいにしたくなる。でもきっとこれは、私の気持ちの問題だ。わかってはいるのだ。

正解を教えてくれる人がいない。私のことだから、私にしか正解は分からない。私が正解だと思えば正解になる人生、それってとてつもなく素晴らしくて、とてつもなく恐ろしいよね。正解だったよって思いながら人生を終えることができればサイコーだけど、自分を無理に納得させて、そっちの方が心持ちが良いから正解にしちゃおうってこともできるわけで、それを考えたら人の「幸」ってどっちにも転ぶんだなって、うまく伝わるかわからないけど、そう考えてしまうんですよ。映画や小説に触れた時の感想も、いつも行きつくのはそこで。「しあわせはこころがきめる」みたいな言葉あるよね。今、私のしあわせは、こころが決めている?こころで決めている?面倒な考え方だけど、青臭い悩みだけど、欲深い考えなのは認めるけど、私、もっともっともっと楽しく生き抜きたいんです。いつも自分には何もないこと、恥ずかしいんじゃなくて悔しいんです。

祖父と五十万円

結婚したい、というよりも、結婚式をしたい、というよりも、ウエディングドレスを着た姿を祖父に見せたいだけだった。祖父が元気で生きているうちに結婚式を挙げたかった。相手もいなかったくせに。もう祖父はいない。私の邪な結婚、いや、結婚式への願望は、「両親が元気なうちに晴れ姿を見せたい」に変わった。ずっとそういう歪んだ願望の形だ。結婚願望というのが正直まだわからない。

そういえば、おじいちゃんからのお金預かっているからね、と、両親に言われたのがついこの間。亡くなった祖父が、孫たちに分配していたというお金。10年近く前に従姉妹の結婚式でお祝いのお金を渡したから、同じように私の結婚式用にも、と、準備をしていたらしい。そんなこと知らなかった。私の結婚のことなんて話題にのぼったこともなかったし、期待する素振りもまったく見せなかった祖父。それなのにお祝いのお金を準備していたなんて。私は結婚式を挙げる予定は今のところないし、もう祖父は五年前からこの世にいない。この先直接「ありがとう」って、一生言えない。

未だに後悔することがある。何に対しての後悔なのか分からない。結婚できないことについて、誰が悪いとかでもないし、後悔しようがないことだとは理解している。それでも、綺麗な姿で、大切な人の隣で、幸せを盛大に示したかった。見て欲しかった。喜ばせたかった。安心させたかった。こんなに大きくなって、生涯を共にしたい人と出会って、皆に囲まれて祝福されて幸せだよって形として見せたかった。なぜだろう、なぜだか説明できないけれど、私はそれを、ずっと祖父に見せたかったのだ。

私は私の幸せのために生きているつもり、だけど、たまにそれで良いのか迷ってしまう。もしかしたらとんでもない親不孝者なのかもしれないと悩んでしまう。親も親戚も、私の自由を「私そのもの」として当たり前のように受け入れてくれるから尚更だ。押し付けられない、干渉されない、でもちゃんと幸せを願われていると感じるから、余計、身勝手な自分が後ろめたくなってしまう夜がある。最近、適切な幸せ、みたいな言葉に弱い。上手く言えないけど。

キッチン

狭いキッチンの隅っこで、ヤンキー座りしてブログを書いている。IHコンロがヒューヒュー、フライパンがぐつぐつ音を立てている。鶏そぼろを煮ている。チューブの生姜をこれでもかというくらい絞って入れた。

鶏そぼろが食べたかったわけではない。晩ご飯にはレトルトのカレーを食べた。箱ごとチンするやつ。中辛。だから今お腹は空いていない。そぼろを煮ているのは、甘いものが食べたくなって、買っていなかったのだからあるはずもないアイスがあるかなと少しだけ期待してあけた冷凍庫の奥に、いつ買ったか忘れてしまった鶏ミンチがあったから。つまんない。自分が適当に作って、自分が適当に消費するために買い置きしてあった食材も、お腹も空いていないのに夜中に謎の使命感で作る料理も、つまんない。私の最近の生き方みたい。

去年の秋頃までは、マメに料理をしていた。自分のために作る料理も悪くないと思っていたし、深夜にキッチンに立つと寂しさが紛れた。コンビニのご飯にもカップ麺にも飽き飽きしていた。だから自炊をしていた。冬になって、生活に向き合う余裕がなくなって、「食事」よりも「栄養補給」がメインになった。ウィダーをたくさん買い置きしていた。

そして、今。滅多にご飯も炊かなくなった。何故か、キッチンに立ちたくないのだ。包丁もまな板も見たくない。以前はあれだけ心を無にできて良いとひたすら野菜を切っていたのに、今はちょっとした野菜も買わない。野菜を摂らなければと申し訳程度でよく買っていた袋入りのキャベツの千切りすら買わなくなった。

自炊をしていた時期、自炊に対して褒められることが多かった。弁当を作って行くと偉いねと言われたし、一人暮らしなのに毎日ご飯作って、ちゃんとしてるねとも言われた。嬉しくも誇らしくもなかった。私は料理が大好きではなかった。生きるための自炊をしていただけだ。コンビニ弁当に飽きたから自分で作っていただけだ。だから、偉くもなんともないし、凝った料理など作ることはできない。ほんだし入りの味噌汁や、麺つゆで作った煮物、焼き肉のタレで炒めた野菜、ゆでたまご、鶏そぼろ。

私の趣味は、料理ではない。

私の特技も、料理ではない。

私にとって料理はきっと義務みたいなものだ。

なんだろう、上手く言えないけれど、私には「義務」がとても多いと思う。そのせいで自分もまわりも苦しめている気がして、たまにすごくしんどい。自分にとっての義務が多すぎて辟易しちゃう。

私、鶏そぼろ、明日食べるんだろうな。腐らせないように、できるだけ早めに消費するんだろうな。馬鹿みたいに沢山できた鶏そぼろ。きっとそのためにご飯も炊くのだろう。明日の義務ができてしまった。どうしてこんなにモヤモヤするのだろう。大きな悩みもないし、睡眠時間も確保できているし、毎日それなりに笑って過ごしているのに、どうして夜中になるとこうなってしまうんだろう。

こないだ、心を許しすぎている相手に、「強欲だね」と言われた。言われた瞬間になんとなく腑に落ちた。私は強欲なんだ。幸せならば幸せでそれが怖くて足りなくて、いつも何かを疑っていないと心が安まらないのだ。まだ二月なのに来年の運勢を知って来年があまり良くない星回りだと知った。知ったその日から来年の不幸について考えている自分の頬を引っ叩いて、今を真正面から見ろと告げたい。不要な義務ばかりに気を取られて、本当に大切なことを忘れている。向き合わなければならないことは、もっと他にある。

お腹は空いていないけれど出来上がった鶏そぼろはそれなりに美味しそう。ヤンキー座りって結構疲れる。

ナンについて

もう何年も前、当時の恋人と付き合い始めた頃、ドライブ中に質問大会をした。質問大会と言っても、「好きな食べ物は?」「きのこ派たけのこ派?」「真っ暗でも眠れる?小さいあかりが必要?」のような簡単な質問をするだけの、要するに「相手のことをより知ろう」的なコーナーだった。

いくつめかの質問で、私は、「ご飯とパンどっちが好き?」と聞いた。まじでどうでもいい質問だし、その日によって気分なんて変わるだろうし、まあ日本人だしご飯の方が食べる回数は多いだろうと予想はつくし、「朝はご飯派?パン派?」とか、そういう具体的な質問にすればよかったと今になっては思う。ただその時の私は、その場の流れとノリでそんなどうでもいい質問をしたのだ。

ご飯、と、相手は答えた。ふーん、じゃあ、ご飯とナンだったら?と私は返した。そうしたら、相手は突然ゲラゲラと笑い出した。そして言った、「ほんと面白いよね、そういうところが好きなんだよ」と。

え???

別にウケを狙ったわけでもない、ご飯とナンだったらまあご飯だろうとは思っていたけど、念のため聞いておこうと思って質問しただけで、こんなにウケてくれるとは夢にも思わなかった。その後も私が特に何も考えずに言ったこと・したことが何故か相手にとてもウケて、その度に私という人間が「面白い」と褒められた。

なんてことないエピソードだけど、私はたまにこのナンの話を思い出す。そして、人の価値観ってそれぞれなんだなと思う。ネガティブな感情が自分の中にドロドロと渦巻いて、自分って何故こんなにつまらなくてどうしようもなくて何にも持ってないんだろう、なんて落ち込んでしまう日もまだまだたくさんあるけれど、私以外の誰かが笑ってくれたことをふと思い出しては、少し強くなれる気がするのです。

何もない自分を愛したい

自分から良い香りがする。and andのシャンプーの甘い香り。少し甘すぎるくらいに甘いけれど、そのくらいがちょうど良い。

昨年の秋から年末にかけて、怒涛の勢いで日々が過ぎ、何に流されているのか何に追われているのかも分からないくらい精一杯の毎日だった。枕に頭がつけばコテンと眠りについていたし、いつだってとにかく帰って眠りたかった。仕事以外で自分の時間が持てると幸せに感じた。

それなのに今は、その時期の半分も働いていない。物足りない。働いた気がしない。一日をスッキリ終えられない。こんなの馬鹿げている。日ごとに忙しさはあるわけで、仕事だって山積みなわけで、それでも全体の仕事のペースが緩やかになり働く時間が短くなっただけでこうも変わるのか。一日、自分が何を成し遂げられたか考えた時に、何も無いように感じてしまう。そんなことないのに。やれるだけやったのに。精一杯頑張ったのに。こんなに心だけは疲弊しているのに、身体は元気いっぱいでおかしい。ただ、健康的な働き方に戻っただけというのに、そう言えば私の人生なんてずっと何かに追われていなければ私の日常じゃなかった気がする。

物心ついた時から時間は「足りない」「追われる」ものだった。学校に行く前の朝の準備はせかせかと、授業の前は遅れないように小走りで、給食は居残りにならないようにばくばく食べる、授業が終われば走って部活へ、家に帰ったら課題をして、予習をして、テレビなんて観ていたらあっという間に夜で、寝る時間で、お風呂は作業で、ドライヤーは時間の無駄だから嫌いで、だからというわけではないけれど万年ショートカットだった。大学に入っても授業が終わったらダッシュでモノレールに乗ってバイトに行って、最終モノレールの時間ギリギリまで働いていた。目の前で最終モノレールのドアが閉まったことも一度や二度じゃない。家に帰ったらレポートを。コタツで寝落ちして起きたら一限ギリギリ。そんな日々に慣れていた。何もしていないのが怖くて寂しくて、出来るだけ何かを残そうとしていた。今も多分そう。

使いもしない資格をとってみたり、興味もない分野の本を読んでみたり、行ったことのない場所ばかりに興味を持ったり、そういうのは全て私が生きた形を残したいからなのかもしれない。本当は何もない自分を愛したい。仕事が閑散期ならばプライベートを充実させなくちゃと躍起にならなくても良いのだ、ほんとうは。今日は一日中お布団でゆっくりできてよかったねえ、でも良いのだ。働く時間が短くなったから帰りにコーヒーでも買って家でゴロゴロテレビ見たり本読んだりしようかな〜、で良いのだ。無理に頑張って何かを成し遂げようとかしなくて良いのだ。分かっている。分かっているけれどどこか許せない。勿体ない、そんな時間の使い方したら勿体ない、時間は「足りない」ものなのに。

考える。私の時間は、周囲より少し速く進んでいる。ただ、それだけ。密度があるわけではなく、少し速いだけ。それだけ。落ち着きたい。もっとゆっくり、丁寧に、自分の一挙一動を見つめて、それだけを認めて、受け入れて、そういう時間を持ちたい。何もない自分を愛したい。精進も邁進もしていない自分も自分だと早く許してあげたい。考えたって仕方のないことは考えてもどうしようもないのさって耳元で口笛を吹いてくれる妖精を飼いたい。

2022

今年の私へ。

2022年が始まりました。今年も私のお世話をよろしくね。今年はきっと変化と挑戦の一年になります。不安なことも、考え込んでしまって眠れない夜も、既にたくさんあります。でも、思い詰めるのも一人で抱えるのも良くないことは知っているよね。真面目で責任感が強いのはあなたの素敵なところですが、テキトーに息抜きしてテキトーにのらりくらりかわしていく技術も身につけていきましょう。

もし自信をなくして挫けそうになったら良いことだけ良いことだけ思い出そうね。

今年のあなたに覚えておいてほしいことをいくつか書いておきます。

🍵人に優しく、自分にも少し優しく

日々、「優しくなりたい」と口癖のように言っているあなたは、優しくいようという気持ちはあるけれど、心の余裕を無くした時に優しさも落っことしてしまいます。きっと少し自分に優しくすれば、人にも優しくできると思うんです。今年は自分のことも大切にしてみてね。

🍵冷静に、自分の軸を持って仕事をする

あなたが挑戦しようとしている管理職って多分とても大変。あなたは見た目が見るからに舐めてかかられそうな小娘だということ、自分でも自覚しているし人からも言われたことあるよね。それで嫌な思いをしたり泣いたりしたこともあるでしょ。でも、あなたが毅然と冷静になって対応できれば防げたこともあります。敢えて厳しいことを書くけれど、過去に嫌な思いをしたのは、自分の未熟さも原因の一つです。とにかく落ち着いて。まずは落ち着くこと。大丈夫だよ。

🍵公平と平等を明確にする

これも仕事のこと。八方美人になれと言っているわけではない。明確な基準を示して納得を得ろ。

🍵健康的な生活を送る

少なくとも週に一度はジムに行く。体重は出来れば今より二キロ落とす。でも体重よりも体脂肪率が気になるので、体脂肪率を落とせるようにする。食べたいものは悩まず食べる。食べすぎたら他の食事で調整する。野菜と水分をたくさんとる。早めに寝る(できたら)。

🍵中身のある読書をする

冊数もたくさん読みたいけれど、今年は次が気になってわくわくする読書、もっと勉強したい・この分野について他にも知りたいと思えるような読書をしたい。去年、noteを書きながら、4年間noteを書いてきたけれど自分の語彙はここまでだな、と行き止まりが見えた瞬間があった。素敵な言葉・表現に多く出会わなければ、鮮やかな文章は書けない。私の文は文というより語彙力少なめの感情の垂れ流しだという自信の無さがすごい(すごい、としか言えないこういうところも語彙力が無い)。今年は、はっとする日本語にたくさん出会う。

🍵好きな人には好きという

「推しは推せる時に推せ」という言葉があるように、人ってある日突然消えたりする。あなたは今まで素直になれなくて後悔することばかりでした。普段のように思ったことぱーんと言ってみるのも良いかもしれません。素直さをそこで披露しなくてどうする。何にでもそうです。今しかないと思って気持ちを伝えていこうね。

🍵フットワークは軽く、口はかたく

言葉の通り。気持ち良い人間でいよう。

私の矛盾について

とてもせっかちで物事をぱっぱっと進めたい派なのに、人と普通に打ち解けるまでに通常の倍はかかる。

一目惚れして恋におちたりしてみたいのに、その人を知ってから数年たたないと恋みたいな感情は生まれない。

人に指示されたり命令で動いたりするのは嫌いなのに、自分は歯車としての性能は悪くないと思っている。

お金持ちだとか収入の高さとかよりも、収入と支出のバランスが取れているかお金に対してリスク管理があるかの方が気になるのに、それでも正社員という文字に魅力を感じてしまう。

私はまだ27歳なのに、とも思うし、もう27歳だ、とも思う。

年上の人にベタベタに甘えたいけれど、後輩をベタベタに甘やかしたり見守ったりする方が向いているような気がする。

やりたいこと、やるべきこと、好きなこと、向いていることがそれぞれ違う方向を向いていて、どこに向かって進むべきかが分からない。

やりたいことをやれる人生は幸せだろう。でも、やりたいことだけで現実問題食べていけるのだろうか。

やるべきことをやって誰かを守れる人生は幸せだろう。でも、やるべきことだけにすり減ってしまって本当に楽しいのだろうか。

好きなことで生きていける人生は幸せだろう。でも、現実はそんなにきっと甘くない。

向いていることで生きていければかなり楽だろう。でも、それだけで生きるのは寂しくないだろうか。

矛盾だらけが世の中で、矛盾だらけが私なのだ。お茶と名乗っているけれどコーヒーばかり飲んでいるので、最近はユーザー名を「焙煎」とかにしようかなって思っている。会ったこともない・今後(も)会うことがないかもしれないネットの世界のみんなが明日も笑っていますように。今日はほんの少し自分の心に余裕があるので誰かの幸せをほんの少し願ってみる。たくさん願えるほど善人ではないけれど、自分の好きな人と自分の幸せはいくらでも願いたい。

一筋縄でいかない人生、よきかな。