他人の人生

きわめて個人的なこと

同じ月を見ている

ねえ、実は今日も月が綺麗だよ。

昨日はきっとたくさんの人が空を見上げたのだろう。SNSにも月の写真がずらっと並んでいて、ああ皆既月食なんだと知った。一階の部屋の隅から眺めたまるい月。おつきさま。おひさま。おてんとさま。神様。私たちは、空の上にある存在に「さま」をつけがちだ。

皆既月食の翌日、なんてことない今日、立ち止まって月を見上げた人は何人いただろうか。

今日は皆から忘れられてしまったみたいなまんまるおつきさま。忘れられたわけではないけれど、特別でも何でもないおつきさま。そういう位置づけにあるものが昔から私は大好き。

 

今、うまくいかないこと、

今、どうしようもできないこと、

将来への漠然とした不安、

形のない心配、

半年後の見えない不安、

明日がくるのがこわい夜。

これら全てが私にとって、乗り越えられる「ただの楽しい試練」でありますように。

いつか誰かと空を眺めながら歩くことができる安心した夜が訪れますように。

心の底から分かり合えなくても、同じ温度で物事をはかろうとすることができる同士と出会うことができますように。

 

ねえ、今日も月が綺麗だよ。

星もたくさん出ているよ。

空気が澄んでいる。冬が近いね。

月からはどう見えているんだろう、ちっぽけな私たちのこと。いつまでもキラキラした塵でいたいな。

 

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帰り道、運転しながら、もうやだな、と思った。もうやだな、シンプルに、もうやだ。私の人生は平坦で生ぬるい人生かもしれないけれど、それでも歩くのに疲れてしまう時はある。ああ、他人の道を歩きたい、と思った。近所のアパートの前で、痩せた野良猫が一心不乱にカリカリを食べていた。日が短くなったから、最近寒くなったから、心が寒いのかもしれない。食べても食べても満たされないし、体の中には涙になるような水分すらない。

 

悲しいニュース。届いた訃報。投げつけられた言葉。傷つけてやろうと狙って放る言葉。吐き捨てられた言葉。でも図星だったからグサグサ刺さった。うまくいかない毎日。自分をうまくコントロールしなきゃ。人に何言われても大丈夫でいたい。私が私の自覚を持たなければ。幼稚な私は、付き合いたくない人とずっと付き合わなければならないという苦痛に一秒でも耐えられない。多分、本当は向いてない。まわりの出来事に心を乱されてばかりだ。

 

それが口に出したら品格を落とす言葉なのかどうかを判断できるようになること、そして「言わない」という選択ができること、私は人として終わりたくない。言葉は刃物。人間の形を保っていたい。反面教師。

 

心穏やかに過ごしたい。できることならば。

それなのに、「傷つけられず静かに食べるぶんだけ耕すような生活」が、未だにどこにも見当たらない。

 

一度立ち止まる勇気が欲しい。もうやだな、と思った時に、他を諦められる強さが欲しい。最近の私は全てが中途半端でどっちつかずでカッコ悪い。とても。ぜんぜん真っ当な生き方じゃない。馬鹿正直な性格だから、そういう生き方している自分がいちばん気に入らなくて認めたくない。

 

もうやだな。

もっと素直に、もっと上手くやれればいいのにな。取り繕うのにばかり疲れている。挽回する気力もない。一度乗ってしまった船の上で、このままゆらゆら浮かんでいくのか海に飛び込むのか、どうするんだろうな〜って他人事みたいに眺めている。きっとどうもしないのだろう。

 

以前だったらこんな夜に誰かにしがみつきたくなっていたのだろう。人に寄りかかりたくなっていたのだろう。今は、当たり前のように一人で耐える。一人は楽だ。あったかくない分、期待もないし、失望もない。年々、ひとりという気楽さに慣れてしまっている。

みんな、こんな世の中で、どうやって人と生きているの?器用だね。私の思う「私の欠陥」は、きっとずっと欠陥なのだろうと思う。だって、どこまでいっても寂しいし、どこまでいっても大丈夫。

 

 

 

 

 

夢を叶えたあなたへ

人の声をきいて涙がでることが今もあります。私の大抵の感動は耳から始まります。耳と心はたぶんとても近くにあります。

 

夢を叶えたあなたへ。おめでとうございます。早く私もそっちに行きたいです。

 

夢を叶える人と、夢を叶えない人がいます。夢を叶える人は叶えるための努力をするし、夢を叶えない人は特に努力をしません。というか、夢を叶えることに重要性を感じていないのだと思います。どちらも人の生きる道だし、どちらが幸せだとか不幸だとかは決められません。幸せは自分の心が決めるものだからです。

 

今まで、夢を叶えた人をたくさん見てきました。そのたびに赤の他人の私は誰のものか分からない涙のようなぬるい液体を流しておめでとうと思いました。その夢を叶えるためにいくつ我慢をしましたか。捨てたものがどれだけありますか。その道を選ぶために諦めたことも数えきれないでしょう。私は欲張りで、できるだけ多くのものを手に入れたくて、そのせいで取捨選択ができずに結果的に全てを取りこぼしてしまうような性格です。夢を叶えるために他の何かを諦めることがとてつもなく怖い。だからこそ、その覚悟を持って突き進むことができる人に憧れを抱くのです。

 

夢を叶えたあなたへ。おめでとうございます。これまでどれだけ苦労して頑張ってきたのでしょうか。長い道の中で寄り道したくなった日もあったでしょう。そのたった一瞬の寄り道で人生を狂わせることはありません。寄り道で出会った人間とは寄り道でしか出会わないのです。

 

どうか自分を大切に。大丈夫じゃなくなりそうな時は早く逃げて。自分が幸せだと思う方に向かって歩く人を見ると安心する。私もそうしたいと思う。結果論とかそういうのは今は置いておいて、頑張った人がまっとうに夢を叶えた姿だけ目に焼きつけておきたいと思う。いつだって夢を叶える人に美しさを感じるのは、私が努力や目標や尊敬に大きな価値を感じているから。

 

眩しいものはいくらあっても良いけれど、眩しすぎると眩暈がする。早くそのまま突っ走って、私から見えなくなるところまで突っ走って、出来るだけ遠くで輝いて。一等星。かがやく星のひかり。私は長すぎる時間差でその輝きを見るくらいでちょうど良い。

 

 

ちゃんとしてる荒れた生活

9月になった。8月のことが何も思い出せなくて、手帳やシフトを見返して、なんとなくこんな感じだったな〜と8月の大枠をなぞる。

 

ずぼらだ。荒れた生活をしている。人から見えるところはちゃんとするようにしているけれど、自分しか見えないところはとても雑だ。きっと私のそういうところは、周囲にも伝わっているだろう。大雑把で適当でその場凌ぎだ。そのくらいでないとやっていけない場面も多々あるけれど、本当は丁寧な人間になりたい。

 

健康、とは、何を指すのだろう。最近よく考える。多分私は一般的に健康だ。でも、この一週間、何を食べたか思い出せない。基本的に仕事前と仕事後の一日二食。仕事前はキッチンで立ったままコーヒーを飲んで、あとはトーストか大量に作って冷凍しているシャケおにぎりかフルグラにヨーグルトをかけたやつ。仕事終わりはコンビニに寄るか家でそうめんを茹でるかアイスを食べるか...そういう毎日を繰り返していて、いつ何を食べたか記憶がない。一回一回の食事を大事にしていないからこういうことになる。

 

とても身軽で効率の良い(?)生活だ。起きてから化粧して髪のセットをしてご飯を食べて歯を磨いて家を出るのに30分あれば十分で、それは生活ではなく作業だ。帰って服を全部脱ぎシャワーを浴びてお腹を満たして適当に家事をする。次の日のワイシャツがなければまとめてアイロンをかけるし、シンクに皿がたまれば洗い物をするし、数日に一回は無性に気になって部屋中にモップをかけたり排水溝をみがいたりする。でも、それって全て作業だ。私の生活に「生活」がない。なんというか、彩りのようなものが欲しい。ゴミを出しにいく途中で野良猫を眺めるとか、天気がピカピカの晴れだから洗濯がしたくなって洗濯するとか、八百屋で夏野菜が安かったから夏野菜カレーにするとか、そういう感情や理由にもとづく生活がしたい。

 

8月のことはほとんど思い出せないけれど、仕事が楽しかった気がする。仕事が楽しい時期は生活を忘れてしまうから、きっと8月の私は仕事に集中していたのだろう。ひとつのことに力を注ぐと他のことがおざなりになってしまう。よくない。仕事のことばかり考えすぎて「恋人の顔 忘れる」とグーグル検索してしまった数年前の自分となんら変わっていない。少しは変わりたい。「自由」と「自分以外の人間と過ごすこと」を共存させたい。

 

9月は何を食べたかはっきり思い出せる日を増やしたい。あと、足の爪をゴールドからモスグリーンにする。手の爪は色をつけられないから、足の爪にこっそり塗るのが楽しみのひとつ。髪を5年以上振りに染めようと思う。秋色にしたい。

【かしこ】について※支離滅裂

いつだか忘れたけれど、クイズノックとフワちゃんがコラボしている動画の中で、フワちゃんが「あたし【かしこ(賢い人)】がこの世でいちばんすき!!!」って言っていた。たまに、何の脈絡もない生活の一場面でこの一言を思い出す。

考えてみれば、私も【かしこ】がこの世でいちばん好きかもしれない。【かしこ】とは、単に頭が良い・勉強ができるということではなく、

・学ぶ→活かすができること

・当たり前に学ぶ努力ができること(息するように学ぶ)

・賢いということを武器にはするが自慢はしないこと

・自分と他人は別であると理解していること

・その上で人を思いやることができること

・適切な言葉を選ぶことができること

のような人のことを指すと私は思っている。

【かしこ】な人を見ると、単純に興味がわく。もちろん尊敬もするし、自分も何か学びたいなと学習意欲もわくけれど、それ以上に、【かしこ】な人はどうやって物を考え、どうやって普段生活しているのだろうというところが気になる。

【かしこ】はすごい。適切な場面で適切な知識を披露する。無駄にひけらかさない。言っていいことと言わない方がいいことの線引きがうまい。相手を慮る余裕と品がある。そう、【かしこ】は、品があるのだ。

そんな【かしこ】が大好きな私自身は【かしこ】ではない。小学校から高校まで、学校のお勉強は苦手ではなかったし、定期テストも数日夜漬けでそれなりの点数をとることができていた。高校時代も、私の成績は大抵学年の上位5%〜10%に位置していて、廊下に貼り出された試験結果には必ず名前があった。クラスメイトから見た私は「どちらかというと勉強ができる人」に映っていたかもしれない。でも私は勉強が好きなわけではなかった。勉強は試験のためにする。勉強は成績をキープするためにする。自分だけこの問題が分からないのは嫌だから勉強する。先生に当てられた時に答えられないと恥ずかしいから予習する。そんな、ネガティブで打算的な理由から勉強をしていた。

試験だってそうだ。周囲と順位を争うゲームだと思ってやっていた。順位のケタが変わった時は快感だった。一度上位に入ってしまったらキープし続けないとダサいという見栄もあった。成績は、自分の価値を高める道具のような気もしていた。田舎の公立高校は、国立大学に進む生徒が増えると喜びがちだし、出来るだけ多くの生徒を国公立大学に行かせたいと願う(私の偏見も入っています)。「お前なら国立行けるぞ!」「もっと上目指せるぞ!」と褒めて伸ばされ(?)、私は自分が「賢い生徒」なのだと錯覚していた。でも、私は結局、「学校の勉強」も「学ぶこと」も大して好きではなかったみたいだ。定められた道をお利口に歩いてきたつもりだった私は、「自分から興味を持つ」ことがどういうことか、「能動的に学ぶ」とはどういうことか、まったく分からなかったのだ。

その頃からずっと、私は「能動的に興味を持ち、学び遂げる」人に憧れを抱いている。「楽しそうに専門分野を極める人」を尊敬している。私は与えられたものを適当に処理することしかできない。ずっと疑問だった。私もそれなりにやれるはずなのに、私もそれなりに賢いはずなのに、なんなら学校の成績だったら多分私の方が上位なはずなのに、どうしてあの人をこえられないんだろうって、人と自分を比べては落ち込む日々を繰り返した。そんなことする時点できっと私は【かしこ】ではなかったのだ。大人になって、勉強で点数をつけられなくてよい・順位を気にしなくてよい日々を過ごして、やっとわかってきた。私は、勉強が嫌いだ。嫌い、は極端かもしれない。好きではない、くらいが妥当かもしれない。でも、「できない」が「できる」になる瞬間、「わからない」が「わかる」になる瞬間に立ち会うのはとても好きだ。そのためならほんのちょっと努力できる。大人になった私が学ぶ理由なんて、そんな些細なことで良いんじゃないか。【かしこ】ではないけれど、【かしこ】マインドは持っていたい。まだまだ道のりは長いけれど、私はいつか「品があるお嬢さんね」と言われたいのだ。知性・理性の溢れる魅力的な女性になりたいのだ。【かしこ】からだいぶ飛躍してしまったけれど。

まったく別件ですが、かしこについて誰得エピソードをひとつ。

小学生の頃、なんらかの授業で(覚えていない)、学校近隣に住んでいる高齢の方に手紙を書こう、というものがあった。見ず知らずのおばあちゃんに私も手紙を書いたのだが、運良くそのおばあちゃんは筆まめな方だったようで小学生の私にお返事のハガキをくださった。その時のハガキのいちばん最後に「かしこ」とあったのだ。家に帰って私は母に「このおばあちゃん【かしこさん】って名前なの?」と聞いた記憶がある。その時に初めて母に「女の人が手紙の終わりに添える言葉」であることを教えてもらった。へええ〜〜〜!!!と思った。長く生きるって知っていることが多くてすごいなと思った。感動した。人生史上いちばんシンプルに「学ぶ」ことができていた私自身の【かしこ】時代は、その頃だったかもしれない。

あなた

私はつくづく欲張りで、自分にないものばかりを欲しがる日々を繰り返してきて、「羨ましい」と「憧れ」をガソリンに体と心を動かして、何の解決にもならない雑文を書いて、そういう生活に結構満足してしまっていた。それでもたまにふっと立ち止まって胸に手を当てて考えた時、空っぽのすっからかんになってしまった気がして、いや、現状空っぽのすっからかんであるような気がして、その事実に怯えてしまう。好きなものより、怖いものの方が多い。分かり合えたと一瞬でも思ったら、そこから依存が始まる気がして。恋愛は安心とは別物で、前にもどこかに書いた、恋人がいることと、眠れない夜に「眠れない」と言える相手がいることは別物だということ、究極、人はひとりだということ、ここ数日間で噛み締めている。

あの時手を離さなければ、あの時手を掴んでいれば、今頃手にしていたであろう安心について考えていた。懐かしい顔ぶれ、インスタのストーリーズ。私の咲かない場所。もう二度と会うことはない人。きっと忘れられている名前。どこで何をしているかも分からない過去の憧れ。

このままで良いのだろうかと、何万回思っただろう。遠くまで見渡すことができない恋愛は楽しくて心細い。期間限定の「WE」だと自覚するたびに恐ろしい。少しでも未来をチラつかせるとダメになってしまう。悪いこと一つもしていないのにやりづらい恋愛、私、何がいけなかったのだろう。うまくいかないと、仕事のせいにしたくなる。でもきっとこれは、私の気持ちの問題だ。わかってはいるのだ。

正解を教えてくれる人がいない。私のことだから、私にしか正解は分からない。私が正解だと思えば正解になる人生、それってとてつもなく素晴らしくて、とてつもなく恐ろしいよね。正解だったよって思いながら人生を終えることができればサイコーだけど、自分を無理に納得させて、そっちの方が心持ちが良いから正解にしちゃおうってこともできるわけで、それを考えたら人の「幸」ってどっちにも転ぶんだなって、うまく伝わるかわからないけど、そう考えてしまうんですよ。映画や小説に触れた時の感想も、いつも行きつくのはそこで。「しあわせはこころがきめる」みたいな言葉あるよね。今、私のしあわせは、こころが決めている?こころで決めている?面倒な考え方だけど、青臭い悩みだけど、欲深い考えなのは認めるけど、私、もっともっともっと楽しく生き抜きたいんです。いつも自分には何もないこと、恥ずかしいんじゃなくて悔しいんです。

祖父と五十万円

結婚したい、というよりも、結婚式をしたい、というよりも、ウエディングドレスを着た姿を祖父に見せたいだけだった。祖父が元気で生きているうちに結婚式を挙げたかった。相手もいなかったくせに。もう祖父はいない。私の邪な結婚、いや、結婚式への願望は、「両親が元気なうちに晴れ姿を見せたい」に変わった。ずっとそういう歪んだ願望の形だ。結婚願望というのが正直まだわからない。

そういえば、おじいちゃんからのお金預かっているからね、と、両親に言われたのがついこの間。亡くなった祖父が、孫たちに分配していたというお金。10年近く前に従姉妹の結婚式でお祝いのお金を渡したから、同じように私の結婚式用にも、と、準備をしていたらしい。そんなこと知らなかった。私の結婚のことなんて話題にのぼったこともなかったし、期待する素振りもまったく見せなかった祖父。それなのにお祝いのお金を準備していたなんて。私は結婚式を挙げる予定は今のところないし、もう祖父は五年前からこの世にいない。この先直接「ありがとう」って、一生言えない。

未だに後悔することがある。何に対しての後悔なのか分からない。結婚できないことについて、誰が悪いとかでもないし、後悔しようがないことだとは理解している。それでも、綺麗な姿で、大切な人の隣で、幸せを盛大に示したかった。見て欲しかった。喜ばせたかった。安心させたかった。こんなに大きくなって、生涯を共にしたい人と出会って、皆に囲まれて祝福されて幸せだよって形として見せたかった。なぜだろう、なぜだか説明できないけれど、私はそれを、ずっと祖父に見せたかったのだ。

私は私の幸せのために生きているつもり、だけど、たまにそれで良いのか迷ってしまう。もしかしたらとんでもない親不孝者なのかもしれないと悩んでしまう。親も親戚も、私の自由を「私そのもの」として当たり前のように受け入れてくれるから尚更だ。押し付けられない、干渉されない、でもちゃんと幸せを願われていると感じるから、余計、身勝手な自分が後ろめたくなってしまう夜がある。最近、適切な幸せ、みたいな言葉に弱い。上手く言えないけど。