他人の人生

きわめて個人的なこと

文なんて死んでも書くもんか

起きて思った。あー、もう文なんて書くもんか。一生書くもんか、死んでも書くもんか。
それなのに今また書いている。ださい。

久しぶりに気持ちを入れて文を書いたら疲れてしまった。そーか、私は気持ちを入れて文を書けない人だったのか、昨年の文フリで思い知ったはずだったのに、また思い知ってしまった。人は過ちを繰り返す。向き合うのが苦手であらゆることから逃げてきたのに、真面目に文が書けるなんて思う方が烏滸がましかった。

いつも、流されるための文を書いている。夜を越えるためだけの文を書いている。次の日の朝になれば意味を持たないものに変わる文を書いている。私は、私と、私によく似た「夜中を生きる誰か」のために書いている。眠れないよるに「眠れない」と言える人がいるかいないか、それだけで人の人生は変わってしまうと知っている。大好きな人よりも、同じ夜を一緒に越えられる他人の力を信じてる。朝になったら捨てられていい、夜中のためだけに文を生んでいる。

だから、朝になると冷えるのだ。起きて、冷えて固くなったごみを見て、二度と書くもんかと思うのだ。

noteを100本以上書いたけれど、未だに私は私の文を書けない。私の文、というのは、私が書きたかった文のことで、それは私以外が書く文のことだ。感情をむき出しにしない、客観的で理性的、まとまりがあって人の心を優しくできるような、そう、私はあたたかくて優しい文を書きたかった。

誰も私を知らないところまで逃げたい。お茶はもう背負いきれない。

文章と仲良くなりたい。ボールは友達、という感覚は少しだけ知ってる。自分の一部のようにボールが手に吸い付いてくる感覚。裏切らないな、と、ちゃんと分かる感覚。私の書く文はまだ私を簡単に裏切る。いつでも自分の書いたものを自分のものだと胸を張って言えるようになりたい。全力で書けましたと言えるようになりたい。

こんなに書いたところで、私がいちばん伝えたい人には伝えられないんだから、伝えられなかったからここに書いているんだから、まじで無意味だよなあ。他人の人生に簡単に傷つく私が、私の人生を書いたことによって通りすがりの誰かを傷つけるんなら、やめた方がましなんだよ。

書くのってほんとしんどい。それなのに、書くのってほんとたのしい。意味わかんない。書けるから大丈夫だよ、書けてよかったね、って、言われた言葉をずっと心に生かしている。お守りなのか、呪いなのか。

私しかいないコインランドリー、今日も24時間あけてくれてありがとう。コインランドリーを必要としない人が多い深夜。来るかもわからないその人が来たときのためだけにあかりがともる。私はこのあかりに何度助けられたのだろう。
そうだとしたら、真夜中に私が書くこれも、いつか誰かを安心させるあかりになりますか?それはさすがに調子にのりすぎてるか。

でも私は書けてよかった、こんな無意味な日常でも、書けてよかった、たぶん、いつか、そうおもえますか?