他人の人生

きわめて個人的なこと

吐き出すだけ

夏の空気に少しだけ秋が混ざるようになった。油断していると気持ちが秋に持っていかれて危ない。秋は、揺らぎに揺らぐ。正気を保つのが最も難しい季節だと思う。

「誰かの何かになりたい」という欲を捨てられずに四半世紀以上を生きてきた。「誰かの何かになる」、この考え方は大変危険だと分かっているけれどやめられない。依存が癖になっている。

一体わたしは「誰の何に」なりたいのだろう。「誰か」も「何か」も、とてもふわっとしている概念だ。ふわっとしている定まっていないものであるにもかかわらず、物凄い強迫観念を伴っているから恐ろしい。自分だけでは解決できない、相手が必要なことなのに、感情は一人歩きする。暴走する。当然のように願いは叶わなくて失望する。その繰り返し。

役に立ちたい。認められたい。存在意義を示したい。褒められたい。感謝されたい。そういう欲張りな欲望だらけで良くない。下心無しで、存在だけしていたい。過大評価も過小評価もされず、「誰かの何か」ではなく、「ただそこに私がいるだけ」であることを許したいし許されたい。

私がいなくても誰かがちゃんとやる。私がいなくてもそれなりに回っていく。私がいなくても他にもたくさんいる。互換性高めな人間、互換性高めな毎日、互換性高めな、...。

だから、いちいち落ち込んだり悔やんだりしなくて良いはずなのだ。やれることをやれば良いのだ。

それなのに、もっともっとって思ってしまう。足ることを知らない、欲深い人間だ。向上心は罪だなあと思うし、向上心を誇らしく思う。私はいくらでも馬鹿になれる。もともとそういう風にできている。機能が搭載されている。だから、そういう風に動かされればいくらでも対応できる。体も心もそれなりに丈夫だし。それが良くないのだと思う。思いやりが欠如する理由だと思う。尊敬が無いと愛せない理由だと思う。

依存せずに生きるって、どうやるのだろう。既に今年の秋に太刀打ちできる気がしない。秋は呼吸が浅くなる。五年生の時、急に何故か給食が食べられなくなったのも秋だった。こういうまとまらない感情ばかりつらねてしまう日、いつだって特定の一人だけのことを考えている。その人のことを考えているから、うまく文も書けない。