他人の人生

きわめて個人的なこと

きらいよ、昨日も今日も明日もわたし

憂鬱な明日に備えて、足の爪に色をつけた。誰にも見られない部分を彩って大事にお守りにする。たったそれだけで心を保つことができるのならば、業務中のピアスやネイルやヘアカラーやゆるゆるパーマも許されればいいのになと思っている。もう、そういうときめきでしか繋げない日がある。己を飾ることは武装と似ている。だって誰も守ってくれない。切り拓くしかない。自分の足を動かすしかない。何とかするしかない。

 

久しぶりに雨が降って嬉しい。雨の夜、布団の中で雨音を聞いていると心がすっと戻ってくる感覚になる。自己嫌悪に陥るのはいつものことで、放っておいても構っていても私は私が嫌いだ。無いものばかりを見つめてきた。これからもきっとそうだと思う。自分自身に対しても矛盾ばかりで、何が本音なのかも分からなくなることが多い。好きなところはすぐに裏返るし、生きてみたい道がコロコロ変わる。このままじゃ駄目だと思うばかりで行動にうつせない。このままじゃ駄目だと思うことが趣味みたいなところもあって、実際のところあまり現状に危機感を持っているわけではないのかもしれない。

 

人並みに身長があればもう少し生きやすかったかもしれないと今でも考える。背の高さなんて、一目見て負けだと分かる負けだから、他のところで何とかするしかなくて、捻れた負けん気の強さばかり育ててしまった。大人になって、気が強いことをかなり気にしているけれど簡単にはなおらない。余裕があって、おっとり優しい人になりたかったのに、短気でうるさくて荒々しい人間になってしまった。例えば背を伸ばす手術とか、そういう方法はあるはあるけれど、あまり現実的ではない。贅沢は言わない、せめてあと3センチ手に入れられたらどんなによかっただろう。もういい大人だし、仕方ないことだと受け入れてはいるつもりだ。でも、ふとした時に絶対に顔を出すこの劣等感とどうしようもない苛立ちに似た感情とこの先死ぬまで付き合っていくのだろうなと辟易する。そういうことって誰にでもあるでしょ?あって欲しい。

 

人と付き合うことが年々わからなくなっている。恋愛もよくわからないと言い続けてきたし、そういうの、とても苦手だ。それなのによくよく考えると何年も恋人がいない期間がある、みたいなことは無い。謎でしかないし、何だよこの大嘘つき野郎、と自分で思う。全てに対して不誠実だとも思う。好きという感情は確かに自分の中にも存在していると自覚しているけれど、心と体と言葉はいつでも連動しているとは限らないし、私は本当に疑り深い。たびたび誰のことも信用ならねえ状態になるので軽薄なムーブしかできない。感情を言語化するのに長い時間を要するからちゃんと話し合いができないことが多い。それを痛感する日々がくるしい。

"君が笑ったり君が泣くのが私のことだなんて許せない"

正しいラブをもらったとて、鬱陶しくて悲しい夜が多すぎる。毒で育つ花もあるよって自分を正当化するのもダサすぎる。

 

 

人に与えられた歌で私の生活ができている。「誰か」に影響されすぎたプレイリスト。

"キミの夢が叶うのは誰かのおかげじゃないぜ"

目に見えるところでも見えないところでも努力を続ける人がチョイスするからこそ、より心に刺さった歌。神様に与えられた才能みたいなものが無くても、頑張る才能があればある程度は(絶対に、とは言わない)どこへでも行けると教えてくれる人がいることが救いだ。

 

 

宮地尚子さんの「傷を愛せるか」を読んだ。その中でも「弱さを抱えたままの強さ」という部分が心に残って何度も読み返した。自分の弱さを自覚しているつもりだ。日々の感情の動き、自分の行動の理由、どういったものに弱く、何に苛立つのか、以前よりはわかっているつもりだ。それでも感情が先行して飲み込まれてしまいそうになることがまだまだ多い。

 

武装している。自覚はある。だいぶ鎧を外してきたとは思うし、周囲にも表情が柔らかくなったと言ってもらえるようになったし、心を許した人に背中を見せられるようになった(物理的に)し、離れてしまった後のことを怖がらずに写真を残すようになった。それでもまだ、肩をいからせて下を向いてずんずん歩かないと不安な自分がいる。強くいなければ、私を守れるのは最終的には私しかいないぞと思う自分がいる。言っても伝わらないだろうと諦めてしまう自分がいる。もう、そういうの全てひっくるめて「わたし」なのだと観念して歩いていければいちばんいいのかもしれない。

 

人は簡単には変わらない。私はきっと明日も明後日も自分であることに辟易しながら、大嫌いを抱えてそれなりに幸福に生きてゆくのだろうなと思う。やっぱりいちばんよく知っているであろう自分自身を見捨てたくはないし。