他人の人生

きわめて個人的なこと

芋は芋でも

美しくなりたいと思った。理想の外見にはなれずとも、せめて少しでも自分が納得できる外見に近づくことができればと思った。

ずっとずっとずっと、それはもうずっと前から私はルッキズムに囚われていて、染みついた思考は簡単には変えることができない。私は、可愛くなりたかった。ふわふわの儚い守りたくなるような外見になりたかった。しなやかで細い手足が欲しかった。身長があと10センチ高ければ良かったなと思うし、鼻筋が綺麗に通っていれば良かったなと思うし、爪が細長ければよかったなと思う。背を伸ばすために鉄棒やうんていにぶら下がったし、鼻を高くするために洗濯ばさみで鼻を挟んで寝たし、爪が細くなる方法を調べて爪のマッサージもした。足痩せマッサージも、二の腕体操も、O脚改善運動も試した。

 

人には向き不向きがある。私は芋だ。街を歩くと素敵な人がたくさんいる。綺麗な二重の人、腰の位置が高くてお洒落なパンツを履きこなしている人、栗色のゆるふわパーマの艶々の髪、毛穴ひとつ見当たらない細くて白い腕。美しい人々の中を、芋な私はすり抜けて歩いていく。私には、美しさというゴールまでの成功体験が無さすぎる。何をどうしても芋なのだ。しっかりメイクができたと喜んだのも束の間、一歩家から出てみると途端に輝きを失う。ショーウィンドウに映った自分が自分過ぎて泣ける。ああ、私も「見栄えよく」なりたい、そう思う。ずっと思っている。正解もゴールも分からないのに、私はこんな馬鹿げた思想にとらわれている。答えなんて出ない。

 

知り合いにすすめられてとあるアイドルの存在を知り、どんどんハマっていく自分がいる。アイドルはとても美しい。自分のなりたい形があって、そこに近づく努力をするストイックさが垣間見える人が好きだ。あと、これはどうしようもないことかもしれないけれど、育ちの良さというか、上品さが垣間見える人も好き。自分の望む外見になれなくても、所作や立ち居振る舞いで美しさを表現できるようになれたらなとアイドルを見ていると思う。

 

私は、綺麗なものが好きだ。美しい人が好きだし、自分もそうなりたいと思う。でも、それが一番大事な価値観でないことも分かる。世の中には大切なものなんてたくさんあるから、私のようにルッキズムにとらわれていては他の大切なものを逃してしまうかもしれない。それでも、それでも私は自分の外見を綺麗に美しくしたいと思う。なんだか垢抜けない芋だと分かっていても、努力だけではどうしようもないことも多いと知っていても、自分が努力が苦手な人間だとももう分かっていても。

 

少しでも、自分を肯定できるようになりたい。私が自分の外見に対して自信が持てないのは、自分の外見に対して「それなりの努力」をしていないからだと思う。そういえば、私が自信を持って自分を肯定できることは、私がちゃんと自分で「頑張った」と思えることだ。それならば、私はまだまだ外見に対しての頑張りが足りないのだ。

 

なんだか野暮ったい、田舎っぽい、垢抜けない。少しでも洗練された大人になるにはどうしたら良いのだろう。芋は芋でも、今年の秋は、焼き芋ブリュレフラペチーノに使われるような甘いさつまいもを目指す🍠今夜も支離滅裂で無茶苦茶な文を放り出してしまって、ああこういう内面のぐちゃぐちゃなところが外にも出てきてしまうのだろうなと考えるなどしている。

ちゃんとしてる荒れた生活

9月になった。8月のことが何も思い出せなくて、手帳やシフトを見返して、なんとなくこんな感じだったな〜と8月の大枠をなぞる。

 

ずぼらだ。荒れた生活をしている。人から見えるところはちゃんとするようにしているけれど、自分しか見えないところはとても雑だ。きっと私のそういうところは、周囲にも伝わっているだろう。大雑把で適当でその場凌ぎだ。そのくらいでないとやっていけない場面も多々あるけれど、本当は丁寧な人間になりたい。

 

健康、とは、何を指すのだろう。最近よく考える。多分私は一般的に健康だ。でも、この一週間、何を食べたか思い出せない。基本的に仕事前と仕事後の一日二食。仕事前はキッチンで立ったままコーヒーを飲んで、あとはトーストか大量に作って冷凍しているシャケおにぎりかフルグラにヨーグルトをかけたやつ。仕事終わりはコンビニに寄るか家でそうめんを茹でるかアイスを食べるか...そういう毎日を繰り返していて、いつ何を食べたか記憶がない。一回一回の食事を大事にしていないからこういうことになる。

 

とても身軽で効率の良い(?)生活だ。起きてから化粧して髪のセットをしてご飯を食べて歯を磨いて家を出るのに30分あれば十分で、それは生活ではなく作業だ。帰って服を全部脱ぎシャワーを浴びてお腹を満たして適当に家事をする。次の日のワイシャツがなければまとめてアイロンをかけるし、シンクに皿がたまれば洗い物をするし、数日に一回は無性に気になって部屋中にモップをかけたり排水溝をみがいたりする。でも、それって全て作業だ。私の生活に「生活」がない。なんというか、彩りのようなものが欲しい。ゴミを出しにいく途中で野良猫を眺めるとか、天気がピカピカの晴れだから洗濯がしたくなって洗濯するとか、八百屋で夏野菜が安かったから夏野菜カレーにするとか、そういう感情や理由にもとづく生活がしたい。

 

8月のことはほとんど思い出せないけれど、仕事が楽しかった気がする。仕事が楽しい時期は生活を忘れてしまうから、きっと8月の私は仕事に集中していたのだろう。ひとつのことに力を注ぐと他のことがおざなりになってしまう。よくない。仕事のことばかり考えすぎて「恋人の顔 忘れる」とグーグル検索してしまった数年前の自分となんら変わっていない。少しは変わりたい。「自由」と「自分以外の人間と過ごすこと」を共存させたい。

 

9月は何を食べたかはっきり思い出せる日を増やしたい。あと、足の爪をゴールドからモスグリーンにする。手の爪は色をつけられないから、足の爪にこっそり塗るのが楽しみのひとつ。髪を5年以上振りに染めようと思う。秋色にしたい。

吐き出すだけ

夏の空気に少しだけ秋が混ざるようになった。油断していると気持ちが秋に持っていかれて危ない。秋は、揺らぎに揺らぐ。正気を保つのが最も難しい季節だと思う。

「誰かの何かになりたい」という欲を捨てられずに四半世紀以上を生きてきた。「誰かの何かになる」、この考え方は大変危険だと分かっているけれどやめられない。依存が癖になっている。

一体わたしは「誰の何に」なりたいのだろう。「誰か」も「何か」も、とてもふわっとしている概念だ。ふわっとしている定まっていないものであるにもかかわらず、物凄い強迫観念を伴っているから恐ろしい。自分だけでは解決できない、相手が必要なことなのに、感情は一人歩きする。暴走する。当然のように願いは叶わなくて失望する。その繰り返し。

役に立ちたい。認められたい。存在意義を示したい。褒められたい。感謝されたい。そういう欲張りな欲望だらけで良くない。下心無しで、存在だけしていたい。過大評価も過小評価もされず、「誰かの何か」ではなく、「ただそこに私がいるだけ」であることを許したいし許されたい。

私がいなくても誰かがちゃんとやる。私がいなくてもそれなりに回っていく。私がいなくても他にもたくさんいる。互換性高めな人間、互換性高めな毎日、互換性高めな、...。

だから、いちいち落ち込んだり悔やんだりしなくて良いはずなのだ。やれることをやれば良いのだ。

それなのに、もっともっとって思ってしまう。足ることを知らない、欲深い人間だ。向上心は罪だなあと思うし、向上心を誇らしく思う。私はいくらでも馬鹿になれる。もともとそういう風にできている。機能が搭載されている。だから、そういう風に動かされればいくらでも対応できる。体も心もそれなりに丈夫だし。それが良くないのだと思う。思いやりが欠如する理由だと思う。尊敬が無いと愛せない理由だと思う。

依存せずに生きるって、どうやるのだろう。既に今年の秋に太刀打ちできる気がしない。秋は呼吸が浅くなる。五年生の時、急に何故か給食が食べられなくなったのも秋だった。こういうまとまらない感情ばかりつらねてしまう日、いつだって特定の一人だけのことを考えている。その人のことを考えているから、うまく文も書けない。

どこにもゆけないわたしたち

日々は繰り返す。一日単位、一週間単位、一ヶ月単位、一年単位...様々な繰り返しの中で生きているのに人生は一度きりらしい。バグやん。

一ヶ月の中で、気持ちと体調に浮き沈みがあることをようやく知った。自分の体のことなのに、無頓着すぎる。何事においても分析というものが苦手で、自分の体のサイクルについても分析をして対策をたてていけばもっと楽に過ごせるかもしれないのに、それをしない。いつも行き当たりばったりで、あ、体調悪いなと思っても気合いでギリギリ乗り切ってしまう。よくない。

同期と話した。漠然とした焦りとこのままではいけないという気持ちを互いに持っていて、だからといって今が上手くいっていない訳でもない。私たち、少しだけ似ている。与えられたものは真面目に前向きに努力してきたし、今置かれている状況の中で最善を尽くそうとしている。でも、ずっと先のことを考えると急に不安になる。どこにもゆけないわたしたち。どこにも戻ることができないわたしたち。切羽詰まってはいないけど、いつだってキラキラした絶望が仕事用鞄の中に詰まってる。ゆとりの中でまじめに生きてきた、わたしたちには死ぬほど守りたい正義がない。

正義、というワードで、最近よく考えるのが「マスク着用」についてだ。

昨日、駅の前で「マスク反対」を掲げた人々が熱心に声をあげていた。暑い中、多くの人がマスクをつけて歩いていた。そんな街中で、彼らは「マスクなんて意味がない」「流されるな」というメッセージを送っていた。私の身の回りには、「日常生活でマスクをつけるのが当たり前」という感覚の人が多く、私も日頃マスクを着用している。こんな御時世だし、マスクがあった方が安心だと思うから。そのくらいの気持ちでつけている。確かに暑いし化粧は崩れるし声は聞き取りづらいしで快適ではないけれど、つけるか/つけないかを選ぶとしたら、私はつける、を選ぶ。

人々は、マスクだけではなく、様々な場面で選択を繰り返す。正しいも間違いもそこには無いと思う。だから、マスクをつけない人が間違いだとは思わない。でも、どんな考えを持っていようとも、モラルは大事にしたいと思う。

接客業をしている。たまにマスクをつけていないお客様と対面する。強制はできないけれど、ごく丁寧に「混み合う時間帯はよろしければマスクをつけていただけますか」とお願いをすることがある。屋内で、冷房もガンガンに効いていて、人もたくさんいる場所だ。できればマスクを着用してほしいと思う。でも、一定数拒否をする人はいる。そしてそういう人ほど大声で喋ったりする。

先日、とある乗り物に乗った。ほぼ満員で密だった。乗車の条件が「マスク着用」で、スタッフもマスク着用を呼びかけていたのだけど、車内で一人、頑なにマスクをしない人がいた。スタッフがその人に強く注意をし、二人は言い争いになり、最後にその人は大声で何かを主張し床に大の字になってしまった。スタッフは呆れた様子で無線で報告を始め、カオスな中で出発してしまった。下車した後に、後ろから降りてきた二人組の女性が「あれはどっちもどっちだよね...」と話す声が聞こえてきた。

私は普段スタッフ側なので、その時のスタッフの気持ちも痛いほど分かった。たった一人にマスクをつけてもらえないだけで「あの人にマスクつけさせてください」「感染予防対策はどうなっているのか」と、他のお客様からのクレームが多発するのだ。そもそも密になる乗り物だとわかっているし、事前にマスク着用が乗車条件だとも掲示している。そのスタッフの「正義」は痛いほど理解できた。でも、言葉のつかいかたは良くなかったと思う。歩み寄り方がうまくなかった。たしかに「どっちもどっち」だと言われてしまうような物言いだった。もっと賢いやりかたがあったはず。

でも、そのスタッフとしては、そんなこと言われてしまうのも解せないだろう。だって、その人にとっては「たったひとりがルールに従ってくれれば起こらなかったこと」だから。

絶対にマスクをつけて欲しい人vs絶対にマスクをしたくない人の戦いに終わりなんてない。ずっと平行線だ。それなら不毛な争いはもうやめませんか?あなたの正義は正義として、その正義を人に押し付けるのはそろそろやめませんか?

・音や声を聞き取りづらく、マスクをすると人の口が読めず困っている

・体調や皮膚の観点からいついかなる時でもマスクをつけられない

・体調や皮膚の観点からいついかなる時でもマスクをつけなければならない

・においに敏感で年中マスクをつけて生活している

・顔に傷や見せたくない部分、コンプレックス等がありこの状況になる以前からマスクを着用している

・屋内と屋外でつけたり外したりするのが面倒だから屋外でもマスクをつけたままにしている

たぶん、私が思いつく以上に事情はいろいろあると思う。個人の事情なんてそれぞれだ。それで良いのに。何故その事情に首をつっこんだり人を傷つけるようなことを言ったり何かを強制したり馬鹿にしたりするのだろう。コロナ禍以前から、公共の場で唾が飛ぶほど大声で騒ぐことや、料理がある前でペチャクチャ喋ることは歓迎されていなかったでしょう?マスクがあっても無くても、それは今も変わらないと思うの。正義よりモラル、大して主張のない私はそうやって生きてきたから、いま街に出るととても疲れてしまう。人とのやり取り、悪意、敵対心、つらい。つらいと感じるのは自分の根拠の無さだと理解しているから余計つらい。

何が正しいのか、知恵をつけなければならない。そしてもっと人に優しくできる大人になりたい。冷静な人を見ると安心して泣いちゃうよ。誰も答えなんて求めてないんだよ。どこかにいきたいだけなんだよ。どこかにいける安心感が欲しいだけなんだよ。

ちなみに厚生労働省のページには、「屋外で距離が確保できる場合はマスク着用は不要」「距離が確保できない場合や人混みではマスク着用を推奨」とある。

最後に、顔の下半分がコンプレックスだらけで、唯一自分の顔で好きだと思えるのが目なので、私にとってマスクはとてもありがたいアイテムだ。私の正義なんてそんなもんです。

雑記

突然ふっと浮かび上がる感情は、どこから来ているのだろう。

突然ふっと浮かび上がる感情は、わたしのものなのだろうか。

突然ふっと浮かび上がる感情は、果たして本物の感情なのか。

今日、仕事中、本当に日常の何気ないワンシーンのその一瞬で、ふと「生きていてよかった」という感情が浮かび上がった。ちょうど備品を元の場所にしまっている時だった。脈絡もなく言葉にできない幸福感でいっぱいになった。「わたしこのままで幸せだ」と思った。「欲張らなくても、今のままでも満たされている」と思った。「この生活が続いていくことを受け入れられる」と思った。

何故かは分からない。でも、こんなふうに、たまに心にひかりが灯る瞬間と出会う。

希死念慮とまではいかないけれど、それなりに死に対しての覚悟もある。自分はあんまり長生きしなさそうだなと思う。このまますうっと自分という存在が消えてしまうことを無性に願う時がある。消えたいとか死んでしまいたいとかそういうのではなく、生きることに対する無力感、のようなものがずっとある。

普段、かなり欲深く、執念深く生きているつもりだ。向上心と言ってよいのかわからないけれど、人生に対してわたしはすこぶる欲張りで、欲しいものは数え切れない。だけど時たま、ふっと気を抜くと、すべて手放してしまいそうになる。ついうっかり、不注意で、本意じゃなかった、みたいなテンションで。

重々しく真面目に振る舞っていても、根本の軽薄さが露呈する。わたしは誰よりも軽薄で適当で注意力散漫で、ほんとは何も欲しくない。楽して生きたい。苦労したくない。争いたくない。それなのに、何故かしあわせになるために頑張っている。欲張りになって努力しようとしている。わたしが死に物狂いで手に入れようとしている「しあわせ」って、なんだろう。どんな形をしているのだろう。

何かが欠如している。あなた無しでは生きられないって、自分では一生言わなさそうな言葉をこれまでに何度か向けられたとき、その度にわたしは死んだ。そんなはずないのだ。わたしがいなくても生きられるから大丈夫。言葉で死ぬってこういうことだと実感した。誰の思い出にもなりたくない。結局いちばん寂しくない方法を探しているような毎日だ。

八月

八月!!オーガスト!!夏真っ盛り!!最高気温37度!!灼熱の太陽!!数十分の運転できつね色に日焼けする腕!!飲んでも飲んでも足りない水!!失われる塩分!!集中力を削ぐ絶妙な湿度!!冷房は寒い!!二秒で乾く洗濯物!!夕方の急な雨!!洗濯物の死!!

気づいたら八月で、その事実に理由もなく焦っている。暑さでどんこんならんイルボンサラン。仕事は低迷して迷走して日々落ち込んで、普段は落ち込んだ分だけ這い上がることができるのに、何故か落ちた半分くらいしか這い上がれない。調子が悪いどうしよもない。いつもは鼻で笑って流せる取引先の見下した口調の電話もいちいち気に触る。要するに余裕がない呼吸が浅い。こんな時は深呼吸して気持ちにゆとりを...って、一日中深呼吸してる気がする。やるべきことはたくさんあるのに手につかなくて、あっという間に一日が過ぎて、明日やろう明日やろうが積み重なって馬鹿野郎。

夏休みという概念(私の中では夏休みは概念)をつくった人は偉い。人々は過ごしやすい時期に頑張れば良いのだ。無理に暑い中頑張らなくて良いのだ。午前中の涼しいうちに勉学に励み、午後は風鈴の音を聞きながら読書したり昼寝したり、市民プールに行ったりスイカ食べたりセミをつかまえたりすれば良いのだ。私はそう思う。

こんなにも人はたくさんいるはずなのに、職を求めている人はたくさんいるはずなのに、どうしてこうも世の中は「人不足」に悩まされているのだろうか。みんな隠れずに出てきてほしい。隠れなくてもいい世間になってほしい。働きたいと思える職場が増えてほしい。それぞれがそこそこ余裕を持ちながら働ける程度の仕事をしながら豊かに生きてほしい。あれ?途中からめっちゃ他人事になってしまった。みんなで楽しく働ける社会になってほしい。あとホテルのベッドを煙草で焦がしたら自首してほしい。閲覧用の本を子どもが破ったのなら申し出てほしい。予約もなしに無謀なリクエストするのやめてほしい。マナーとモラルを携えて、夏のバカンスに出かけてね。私がんばって笑顔で働くから。

【かしこ】について※支離滅裂

いつだか忘れたけれど、クイズノックとフワちゃんがコラボしている動画の中で、フワちゃんが「あたし【かしこ(賢い人)】がこの世でいちばんすき!!!」って言っていた。たまに、何の脈絡もない生活の一場面でこの一言を思い出す。

考えてみれば、私も【かしこ】がこの世でいちばん好きかもしれない。【かしこ】とは、単に頭が良い・勉強ができるということではなく、

・学ぶ→活かすができること

・当たり前に学ぶ努力ができること(息するように学ぶ)

・賢いということを武器にはするが自慢はしないこと

・自分と他人は別であると理解していること

・その上で人を思いやることができること

・適切な言葉を選ぶことができること

のような人のことを指すと私は思っている。

【かしこ】な人を見ると、単純に興味がわく。もちろん尊敬もするし、自分も何か学びたいなと学習意欲もわくけれど、それ以上に、【かしこ】な人はどうやって物を考え、どうやって普段生活しているのだろうというところが気になる。

【かしこ】はすごい。適切な場面で適切な知識を披露する。無駄にひけらかさない。言っていいことと言わない方がいいことの線引きがうまい。相手を慮る余裕と品がある。そう、【かしこ】は、品があるのだ。

そんな【かしこ】が大好きな私自身は【かしこ】ではない。小学校から高校まで、学校のお勉強は苦手ではなかったし、定期テストも数日夜漬けでそれなりの点数をとることができていた。高校時代も、私の成績は大抵学年の上位5%〜10%に位置していて、廊下に貼り出された試験結果には必ず名前があった。クラスメイトから見た私は「どちらかというと勉強ができる人」に映っていたかもしれない。でも私は勉強が好きなわけではなかった。勉強は試験のためにする。勉強は成績をキープするためにする。自分だけこの問題が分からないのは嫌だから勉強する。先生に当てられた時に答えられないと恥ずかしいから予習する。そんな、ネガティブで打算的な理由から勉強をしていた。

試験だってそうだ。周囲と順位を争うゲームだと思ってやっていた。順位のケタが変わった時は快感だった。一度上位に入ってしまったらキープし続けないとダサいという見栄もあった。成績は、自分の価値を高める道具のような気もしていた。田舎の公立高校は、国立大学に進む生徒が増えると喜びがちだし、出来るだけ多くの生徒を国公立大学に行かせたいと願う(私の偏見も入っています)。「お前なら国立行けるぞ!」「もっと上目指せるぞ!」と褒めて伸ばされ(?)、私は自分が「賢い生徒」なのだと錯覚していた。でも、私は結局、「学校の勉強」も「学ぶこと」も大して好きではなかったみたいだ。定められた道をお利口に歩いてきたつもりだった私は、「自分から興味を持つ」ことがどういうことか、「能動的に学ぶ」とはどういうことか、まったく分からなかったのだ。

その頃からずっと、私は「能動的に興味を持ち、学び遂げる」人に憧れを抱いている。「楽しそうに専門分野を極める人」を尊敬している。私は与えられたものを適当に処理することしかできない。ずっと疑問だった。私もそれなりにやれるはずなのに、私もそれなりに賢いはずなのに、なんなら学校の成績だったら多分私の方が上位なはずなのに、どうしてあの人をこえられないんだろうって、人と自分を比べては落ち込む日々を繰り返した。そんなことする時点できっと私は【かしこ】ではなかったのだ。大人になって、勉強で点数をつけられなくてよい・順位を気にしなくてよい日々を過ごして、やっとわかってきた。私は、勉強が嫌いだ。嫌い、は極端かもしれない。好きではない、くらいが妥当かもしれない。でも、「できない」が「できる」になる瞬間、「わからない」が「わかる」になる瞬間に立ち会うのはとても好きだ。そのためならほんのちょっと努力できる。大人になった私が学ぶ理由なんて、そんな些細なことで良いんじゃないか。【かしこ】ではないけれど、【かしこ】マインドは持っていたい。まだまだ道のりは長いけれど、私はいつか「品があるお嬢さんね」と言われたいのだ。知性・理性の溢れる魅力的な女性になりたいのだ。【かしこ】からだいぶ飛躍してしまったけれど。

まったく別件ですが、かしこについて誰得エピソードをひとつ。

小学生の頃、なんらかの授業で(覚えていない)、学校近隣に住んでいる高齢の方に手紙を書こう、というものがあった。見ず知らずのおばあちゃんに私も手紙を書いたのだが、運良くそのおばあちゃんは筆まめな方だったようで小学生の私にお返事のハガキをくださった。その時のハガキのいちばん最後に「かしこ」とあったのだ。家に帰って私は母に「このおばあちゃん【かしこさん】って名前なの?」と聞いた記憶がある。その時に初めて母に「女の人が手紙の終わりに添える言葉」であることを教えてもらった。へええ〜〜〜!!!と思った。長く生きるって知っていることが多くてすごいなと思った。感動した。人生史上いちばんシンプルに「学ぶ」ことができていた私自身の【かしこ】時代は、その頃だったかもしれない。