他人の人生

きわめて個人的なこと

「愛しているよ」に含まれないわたし

夏が来た。しゃんしゃんと照りつける太陽。これでもかというくらいに青い空。吹いているか分かるか分からないかくらいの薄くてぬるい風。耐えられずにクーラーを解禁。クーラーをつけて30分くらいで指先が冷えてお腹が何となく痛くなってくる。ああこの流れまで含めて夏が来た、と思う。

 

書いては消して、書いては消してを繰り返している。今、自分の中に軸がないことが分かる。特別伝えたいこともない。怒りや悲しみもない。仕事中は通常の二倍で稼働していて、家に帰ると魂が抜けてしまう。良くも悪くもない夢の続きをぼんやりみているような感覚。

 

冷静になると、私はこの数年病んでいたのだなと思う。忙しさを言い訳に、気づかない振りをしていただけだ。誰しも皆どこか狂っているからと言い訳をしていただけだ。医者にかかればはっきりと診断名が下されたはずだ。私のような状態で働き続けている人って日本にたくさんいるだろうなと思う。私はたまたまちょっと身体が頑丈で、体育会系の文化で育ってきて、たまたま運が良かっただけで、ちゃんとしっかり見えないところで病んでいた。セルフネグレクトの加速が止まらない。ずっと消えたい気持ちもあった。食欲のコントロールが効かなかったり、数メートル先のお風呂に辿り着けずに床で寝たり、ゴミを出しに行かなきゃ行かなきゃと思いながら行けなかったり、先月分の水道代を払っていないのに今月分の水道代はちゃんと払ったり、トンチンカンなことばかりしていた。

 

だけど、社会人としては「ふつう」だった。なんなら、真面目でしっかりしている、期日を守る、安心だ、なんて評されていた。

 

わからないよね。なにも。

 

何もやる気が起きないとき、ゴミ屋敷を掃除する動画を見る。ゴミ屋敷の住人が、どこか自分と重なる。ゴミを捨てられないから捨てないのだ。わざとじゃない。気づいたらきっとこうなってしまっていたのだろうなと推測する。私みたいに。「繊細」を理由にするにはあまりにも荒々しい社会だった。だから鈍感でやり過ごしてきたけれど、ずっと安心できなかった。人はいつどうなるか分からない。私も明日には起き上がれないかもしれない。私も明日には仕事に行けなくなっているかもしれない。そんな不安がずっとあった。

 

一つやればまた一つ、できるようになったらまた次の新しいことを、そうやって手当たり次第に手を出して気づいたら抱えきれなくなっている。頑張りすぎるというのは美しいことではないと、今なら言える。だけど、不健康と一緒に手に入れた幸せが確かにあって、今しかできないパワープレイで乗り切る努力を経験できて良かったとも思っている。やり方を少し間違えてはしまったけれど、全然無駄ではなかった数年間だったとちゃんと言える。

 

失ったものと手に入れたもの、同じくらいあって、長い目で見れば失ったものもけっこう大事だったかもしれないなと思う。それでも前にしか日々がない。働くことが好きなことは素晴らしいけれど、大事な人たちにはどうか急ぎすぎないでほしいし、壊れないでほしい。傷は手当を、必要なら薬を。そうやって自分以外の人のことは心配するのに、いつだってそこに自分は含まれていなかった、そんなことに気付く夜。