寂しいときに寂しいと言えるわけがないし、辛い時に今辛いですと言えるわけがない。そんな人間が好きな人に向かって好きですなんて言えるわけがない。炭治郎もびっくりの「私は長女だ、私は強い」が自分の根底にあることに気づいてしまった。弱いところを見せると負け、背中を見せると負け。ドッジボールみたいに、背中は見せずに後ずさりするように敵から離れて逃げる姿勢が身についている。余計な詮索もされたくないし、他人にもあまり興味がないからこちらからも深入りしない。毎分毎秒、人が羨ましい。愛嬌とか笑顔とかコミュニケーション能力とか人間が好きだと迷いなく言えるところとか。
一人が好きだ。でも、馬鹿みたいに寂しがり屋だ。仕事で、人から信頼されるのが上手だと褒められたことがある。色んな種類の「信頼」があって、きっと私は仕事上の信頼関係は築くのが上手いのだと思う。でも仕事から一歩抜けてしまえば、信頼なんて全くわからなくなる。誰のことも信用ならねえ、と思ってしまう。自分でさえも。ずっと欲しているのは、愛されたい、必要とされたい、守られたい、甘やかされたい、それらとも全部なにか少しずつ違って、わかり合いたいとも別物の、なんだろう、上手く言えないけれど、安心したい、みたいな気持ち。だけど、言えるわけがない。素直に言葉を出す訓練をしていていないから、やり方が分からない。口に出したところでどうしようもないと思ってしまう。たぶん生まれたときから寂しくて、死ぬまでずっと寂しい。そういう性質なのだと思う。半年前までのようなすっと消えたい気持ちは薄れたし、なんでもいいから結婚したいというヤケクソな気持ちも減ったけれど、一人で生きていく覚悟はまだちゃんとできていない。ある日ふと一緒にいたいなとお互いに思える人が現れるのではないかというメルヘンチックな望みがどこかにある。それでもしっかりわかっている。そんなうまい話はない。私が心のままに生きるのであれば、人とは一緒にやっていけない。私は手に負えない。よほど私に関心のない人でないとうまくいかない。
人生は思い通りにいかないことだらけ。10歳のころの私は、今の年齢の私は結婚して子どもが二人いると信じていた。普通に恋愛できると思っていたし、恋愛して当たり前のように結婚して出産して育児していると信じていた。当たり前ってなんだろうね。私は今の私の生活が「当たり前」なのに。
寂しいときに寂しいと言えるわけがないし、辛い時に今辛いですと言えるわけがない。いつも必要な言葉を取り逃がしているような毎日。放った人が明日には忘れてしまっている言葉を、受け取った側は何年も何年も大事にしていることだってある。私は、そういう人それぞれの価値観を目の当たりにするのがほんのちょっとだけ怖く感じる。
昨日も好きだったよ、今日も好きだよ、でも明日はまだわからない。大好きだから、嘘なんてつけないよ。