他人の人生

きわめて個人的なこと

今年の夏の花火の記憶

花火しましょ、と後輩に誘われて、のこのこついていった。時間と集合場所だけ聞いて、部屋を出た。

花火をする場所まで十人弱でお喋りしながら歩いた。いつも一人で歩く夜中は、数倍賑やかで愉快になった。近くに花火する場所なんてあるのかな、なんて考えていたけれど、ちゃんと花火ができる小さい公園に到着した。最近は海や公園でも花火を禁じられているところが増えている気がする。私たちの夏は気づかないところでじわじわと奪われている。

後輩たちが持ってきた手持ち花火の袋を開けたり、ろうそくに火をつけたり、バケツに水をくんだりしているのを、ブランコを漕ぎながら眺めた。誘われた青春。準備してもらう青春。この夏はじめての花火。この夏にはじめて出会った後輩たち。ブランコを漕ぎながら、これが青春か、と思った。予想していなかった夏。予期していなかった出会い。かわいいかわいい後輩たち。夜だから、と、声をひそめながらわいわいと集まるかわいい人々。あ、これ、人生のなかで、とても好きなシーンにランクインするな、と思った。他人事みたいに思った。

準備が整って、皆が次々にわくわくと花火に火をつける。手持ち花火がどんな音をたててどんな火を吹いて、どんな色に変化していくのかなんて十年以上前から知っているはずなのに、それでも心が弾む。隣の人から火をもらって、隣の人に火をあげる。あっ、色変わった!次はどれにしようかな〜。え、煙めっちゃこっち来る(笑)。この花火湿気ってない?静かに声を弾ませながら、花火に夢中になる人。途中で飽きて公園の遊具に寄りかかっておしゃべりを始める人。チャッカマンで懸命に火をつける人。それらを一生懸命写真におさめようとしている人。

私たちは、それぞれが、それぞれだった。思い思いに楽しんでいるだけなのに、なぜ、それが「私たちの」思い出になるのだろう。なぜ、思い出の題名をつけるとしたら「一緒に花火をした」になるのだろう。愉快だなと思う。この二時間足らずの夜が思い出になってしまうことが、奇跡だなと思う。

手持ち花火の最後に線香花火をするというイベントはどこで生まれたのだろう。例に違わず私たちも最後に全員で線香花火をした。一緒に火をつけて、誰が最後まで残るかやってみよう、なんて言っていたけれど、結局なんとなく同じタイミングで火をつけて、なんとなく終わった。誰の線香花火が最後まで光っていたかもう覚えていない。それもそれで楽しかった。

花火が終わってぞろぞろと夜を歩いた。少しセンチメンタル気味な気持ちになって、これが青春かあ、と言ったら、隣を歩いていた後輩が、青春はいつまでも続きますよ、的なことを言った。たまにそういう名言っぽいこと言うよねってへらへらと笑った。それすら青春に思えた。

この短い夏の夜のことを、きっと私はすぐに忘れてしまう。誘ってもらった青春、準備された青春、青春を近くで眺める青春。後輩の言葉はあながち間違ってはいないかもしれない。いつまでも子どもでいたいな、楽しいことを楽しんでやれる人でありたい、楽しいことに誘おうと思ってもらえる大人でいたいな、そんなことを思った。