他人の人生

きわめて個人的なこと

吹き抜けて春の風

立ち止まったら色々なことを考えてしまうから、立ち止まらないようにしてきた怒涛の数年間だった。

 

私は朝起きてから仕事へ出かけるまで、座らない。だいたい時間ギリギリまで寝ていることが多くて、これ以上ダラダラしていると間に合わないというラインになったら反動をつけてびょんっと布団からとび出る。そして身支度をして家を出るまで、ずっと動き続けている。朝ごはんも立って食べる。覚えている限り、ここ五年くらいはずっと立ったままの朝食スタイル。泳ぎ続けていないと死んでしまう魚みたい。でもこの方法でないと、もしも朝から余裕ができてしまえば「仕事に行きたくない」「会社怖い」「働くの怠い」「何のために働くのか」「働く上での心配事や悩み」みたいなものが次々に浮かんできてしまって多分仕事に行けない日が訪れる。

 

仕事中も、一度手を止めてしまうとそこでぷっつり切れてしまうからずっと働き続けている。仕事中はお腹がすいたとかいう感情も忘れている。常に頭の中で複数のことを考えながら、優先順位とか締切とかごちゃごちゃと全身がTodoリストで埋め尽くされている。

 

そんな生活をしてきたから、感性は死んでしまった。物事を見つめて深く考えるということを放棄してきたから、たまにふと立ち止まると、余白が怖い感覚、なんというか、空っぽで寂しいみたいな感覚が襲ってきて身動きがとれなくなる。寂しさは身体をより疲弊させ、あらゆることを考える力を低下させる。だから、仕事帰りに家の駐車場で車からなかなか降りられなかったり、何も欲しくもないのにコンビニに寄ってアイスカフェラテを買ってしまったりする。大して必要ともしていなかったものを手に入れて、大して望んでいないものを食べて飲んで、そうやって私はどんどん自分を無くしてきた。自覚があるだけまだマシかな。

 

先週、夜、無性にどこか遠くへ行きたくなって、ボロボロの部屋着とノーメイクメガネのまま車に乗った。桜を見に行こうと思った。車で十五分程の公園まで車を走らせる。窓をあけると、春の夜の生ぬるい風が少しだけ懐かしくなった。ちょうど去年の今頃、私は不安でたまらなかった。喫煙所で先輩に励まされて泣いて、駐車場で缶コーヒー飲みながら泣いて、深夜の高速道路を法定速度でぶっ飛ばしながら泣いていた。今より無知で世間知らずでひ弱でおめでたい「オンナノコ」だった自分。でも、"今夜でっかい車にぶつかって死んじゃおうかな"って歌詞はどこか理解できるような気がしていた自分。季節を重ねるごとに、どんどんキラキラした希望みたいなものが減っていく。若さを失うこととはまた少し違う。「若さを失う」と「大人になる」は全然違うし。「諦める力を身につける」のと「希望を捨てる」のも全く別物だってわかっているんだけど、それをちゃんと別物にできていない自分を目の当たりにして苦しい。春が巡るたびに私の感性は退化する。

 

夜のライトに照らされた桜は綺麗だった。美しいなと思った。来年はこの桜を見ないんだろうなと思ったし、来年も夜にここで一人で桜を見ている未来は不正解だなとも思った。正解、不正解だけで物事をはかるのはナンセンスだけど、これだけは絶対に不正解。花を見ると心が多少穏やかになる。でも、花を至近距離で見つめると、結構恐ろしい構造をしていると思う。喰われそう。美しいって恐ろしいことだ。美しいというのはたった一面。面だけで捉えてはいけない。何事も。しばらく桜を眺めて、なんとなく私が殺し屋だったら桜の木の下には死体は埋めないなあと思った。

 

 

桜を見に行った翌朝は土砂降りだった。昨日の桜は雨に打たれてしまったんだろうなと少しだけ残念に思った。それでも生活の余白がかき消される雨の音は好きだ。「一瞬で散ってしまうからこそ美しい」とは言わない。昨晩の桜は、一瞬で散ってしまわなくても百点満点に美しかったから。