他人の人生

きわめて個人的なこと

泣いて忘れる

ギリギリにならないとSOSを出さないタイプだ。昔から、どこがどう痛いのかどこがどう調子が悪いのか説明することが苦手だった。自分の痛みに鈍感だ。漠然と痛いことしかわからない。だから人の痛みにも鈍感でどうしようもないのかもしれない。日々、自分にがっかりしながら生きている。この、自分にがっかり、という現象は案外心にくるものがある。私は私として生きるしかないのはわかっていても、その下手くそさに反吐が出そうになる。

 

キャパオーバーギリギリのところを歩いて、やっと一日を終えて、帰りの駐車場で半分泣いていた。車に乗り込んだとき、ものすごく長くて深い溜息が出た。助けて、よりも、おい助けろ、って感じのSOS。とにかく誰かに寄りかかりたかった。ぱっと脳裏にひとりの顔が浮かんだ。すがる気持ちでLINEを開いて、文字をうって、消して、を何度か繰り返した。お願いだ、助けてくれ、助けてください。疲れた。労わってくれ。わかってくれ。もういいよって言って許してくれ。救われたかった。心がお腹ぺこぺこだった。からっぽ。つらい。でも、何がつらいのかもよくわからない。自分が何に苦しんでいて、どこがどう悲しくてどこがどうきついのかうまく言い表すことができない。

やるせない。自分のことなのに、説明できない。

めそ。めそ。めそ。

三十分くらい一人でめそめそして、その間にLINEの返信が届いた。ほしかった言葉をくれる人。忙しい人なのに余計な心配をかけて申し訳なくなる。心配されて情けなくもある。感情がこんがらがって涙が出る。泣くな。お前は強いだろ。そこらへんの人よりも幾分頑丈でたくましい自覚はある。ちょっとだけめそめそする時間があれば、ちゃんと回復する。次の日には何事もなかったように涼しい顔してる。

 

人に言わせれば、私は弱音を隠すタイプらしい。きっとそうではなく、人によって使い分けているだけだ。一度頼ったらどんどんダメになってしまう気がして、それが怖くて上手に頼ることができない。頼ろうとすると、寄りかかってしまう。私の重みなんて誰にものしかからせたくない。

 

私はキャパが狭いと思う。でも、限界ギリギリまで耐えられる能力は高い。私のキャパを例えるのならば、お風呂の浴槽に、小さな洗面器がいくつも入っているようなイメージ。小さな洗面器の水はすぐにいっぱいになって溢れ出すけれど、浴槽からは溢れない。日々、小さな洗面器の水を溢れさせながら、浴槽の中は溢れた水やごちゃごちゃ散らばる洗面器で散々なことになっているけれど、浴槽の外から見れば水も溢れていない綺麗な状態に見えるから大丈夫そうだと判断される。なんとなくうまくやれているように見える。見えるだけ。こういうタイプのキャパ構造の人は、急にいなくなるし、急に壊れる。ある日突然水がぶわーっと溢れ出して皆が驚く。本当は浴槽内で小さなキャパオーバーを何度も繰り返していたのに、外からは見えない。だから、急に壊れたように見える。いつか私の浴槽の水が溢れる日は来るのだろうか。

 

今年は散々泣いた。一人でも、人前でも。職場や家の駐車場でどれだけ泣いたか知れない。そんな夜を何度も繰り返して、しぶとく生きている。大丈夫だよ、そんなに心配しないでよ。でも、いつもちょっとだけ気にしておいて。そんな図々しい願いを綺麗に光る月にささげてみる。こんな私でも頼りたくなる人がいる。