他人の人生

きわめて個人的なこと

置き忘れられるための傘

月が綺麗。大好きだった。人を大好きと言える自分に安心していた。好きになるのは絶対に、綺麗なものを見上げる時に隣にいない人だった。

 

同じものを見て同じ気持ちになることができなくても、同じものを同じ高さから見ることが必要で、それこそが幸せなのだと思っていた。思いを馳せるのは隣にいない人。隣にいる人のことを愚かな私は忘れてしまう。

 

たまに、ほんのたまに、誰のためにも生きていないことが虚しくなる。ふと立ち止まった時に守りたいものが一つもない。自分を大切にするのが面倒だ。セルフネグレクトの達人。丈夫で強い子。健康優良児。毎日泣いていたとしても、体はそう簡単に死なない。

 

軽薄な謝罪も、傷つかないための工夫も、作り物の無関心も、全て身につけてしまった。手に入れたいものは、意図的な涙や無意識の涙を駆使して手に入れてきた。イージーじゃないけれどイージーみたいな人生、白線の上だけを適当に飛び跳ねながら歩んできた。世間知らずで怖いもの知らずで苦労を知らない生ぬるい陽だまりの中でひたすら与えられ続けて生きてきたから、誇れる魅力が何もない。争いたくない。対立するくらいなら笑って誤魔化して折れたくなる。ぶつかるエネルギーが無駄だと感じてしまう。

 

何のために生きていますか。誰のために生きていますか。いつになったら私はマトモになりますか。帰り道、訳もなく涙が出そうになる。あー空っぽだなと思う。でも日々に大きな不満はない。戻りたい過去もない。ただ、本当に小さな不安が積み重なっていくだけ。

 

なぜだろうか、平凡な人間が、平凡に生きることってこんなに難しい。

吹き抜けて春の風

立ち止まったら色々なことを考えてしまうから、立ち止まらないようにしてきた怒涛の数年間だった。

 

私は朝起きてから仕事へ出かけるまで、座らない。だいたい時間ギリギリまで寝ていることが多くて、これ以上ダラダラしていると間に合わないというラインになったら反動をつけてびょんっと布団からとび出る。そして身支度をして家を出るまで、ずっと動き続けている。朝ごはんも立って食べる。覚えている限り、ここ五年くらいはずっと立ったままの朝食スタイル。泳ぎ続けていないと死んでしまう魚みたい。でもこの方法でないと、もしも朝から余裕ができてしまえば「仕事に行きたくない」「会社怖い」「働くの怠い」「何のために働くのか」「働く上での心配事や悩み」みたいなものが次々に浮かんできてしまって多分仕事に行けない日が訪れる。

 

仕事中も、一度手を止めてしまうとそこでぷっつり切れてしまうからずっと働き続けている。仕事中はお腹がすいたとかいう感情も忘れている。常に頭の中で複数のことを考えながら、優先順位とか締切とかごちゃごちゃと全身がTodoリストで埋め尽くされている。

 

そんな生活をしてきたから、感性は死んでしまった。物事を見つめて深く考えるということを放棄してきたから、たまにふと立ち止まると、余白が怖い感覚、なんというか、空っぽで寂しいみたいな感覚が襲ってきて身動きがとれなくなる。寂しさは身体をより疲弊させ、あらゆることを考える力を低下させる。だから、仕事帰りに家の駐車場で車からなかなか降りられなかったり、何も欲しくもないのにコンビニに寄ってアイスカフェラテを買ってしまったりする。大して必要ともしていなかったものを手に入れて、大して望んでいないものを食べて飲んで、そうやって私はどんどん自分を無くしてきた。自覚があるだけまだマシかな。

 

先週、夜、無性にどこか遠くへ行きたくなって、ボロボロの部屋着とノーメイクメガネのまま車に乗った。桜を見に行こうと思った。車で十五分程の公園まで車を走らせる。窓をあけると、春の夜の生ぬるい風が少しだけ懐かしくなった。ちょうど去年の今頃、私は不安でたまらなかった。喫煙所で先輩に励まされて泣いて、駐車場で缶コーヒー飲みながら泣いて、深夜の高速道路を法定速度でぶっ飛ばしながら泣いていた。今より無知で世間知らずでひ弱でおめでたい「オンナノコ」だった自分。でも、"今夜でっかい車にぶつかって死んじゃおうかな"って歌詞はどこか理解できるような気がしていた自分。季節を重ねるごとに、どんどんキラキラした希望みたいなものが減っていく。若さを失うこととはまた少し違う。「若さを失う」と「大人になる」は全然違うし。「諦める力を身につける」のと「希望を捨てる」のも全く別物だってわかっているんだけど、それをちゃんと別物にできていない自分を目の当たりにして苦しい。春が巡るたびに私の感性は退化する。

 

夜のライトに照らされた桜は綺麗だった。美しいなと思った。来年はこの桜を見ないんだろうなと思ったし、来年も夜にここで一人で桜を見ている未来は不正解だなとも思った。正解、不正解だけで物事をはかるのはナンセンスだけど、これだけは絶対に不正解。花を見ると心が多少穏やかになる。でも、花を至近距離で見つめると、結構恐ろしい構造をしていると思う。喰われそう。美しいって恐ろしいことだ。美しいというのはたった一面。面だけで捉えてはいけない。何事も。しばらく桜を眺めて、なんとなく私が殺し屋だったら桜の木の下には死体は埋めないなあと思った。

 

 

桜を見に行った翌朝は土砂降りだった。昨日の桜は雨に打たれてしまったんだろうなと少しだけ残念に思った。それでも生活の余白がかき消される雨の音は好きだ。「一瞬で散ってしまうからこそ美しい」とは言わない。昨晩の桜は、一瞬で散ってしまわなくても百点満点に美しかったから。

 

 

いつの下書き???

とてつもなく喉が渇いている。だけどどうしても水分が入っていかない。「また連絡するね」と「行けたら行く」と「なんでも相談する」の確率なんてほぼゼロに近い。まともな気持ちで文は書けない。

 

「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないものなのよ」

 

もしも恋愛を認めなければ、今もふらっと会えたのかもしれない。手に入れたいと思うことはとても暴力的だ。人を傷つけてしまう正直さ、平熱の高さ、後頭部の寝癖。

 

絶対に幸せになってやるよ、だから達者で。

 

その狭い世界でずっと生きて、幸せを信じて疑わないキレイな心で生きていたいし、生きていてほしい。傷付かないでね。明日も会えるくらいの軽さでさよならしようね。

 

生きていく場所を選ぶ賢さを持て。人任せにしていたら、心が満たされる瞬間を忘れてしまった。どうしても人の目は気になるし、憎まれたくないし、他人の感情に振り回されるし、過剰な責任感と義務感で自分の首を絞めてしまうけれど、自分のそういう傾向を自分自身が理解しているから、今は前よりも少しだけ強い。私が幸せにならないなんてありえない。

 

 

swim

近況。タイトルは昨日書こうとしてやめたnoteのタイトル。下書きも消しちゃった。書きたかった内容も忘れてしまった。

 

仕事を辞めようと決意してから半月が経った。未だに退職の決意を上司に言えていない。というか、退職を決意してから上司に会っていない。月に一度会えるか会えないかだ。次に確実に会えるのは15日以上先。早く言いたい。だけど、電話やメールではなく、直接言いたい。早く言わなきゃいけない。次の人に仕事を引き継いでいかなければならない。私は、少しずつ綴じていく。自分のすべきことと誰かに渡すものを分けて、綴じてゆく。

辞めると決めてから、仕事の手は抜いていないけれど、確実に「半年後自分はいないから」という線引きのようなものが芽生えていて、どんなに懸命に取り組んでも少しだけ虚しくて寂しい。これまで築いてきたもの、評価されたこと、うまくいかなかったこと、中途半端になってしまっている案件。未来の話が積極的にできない寂しさ。そういうものを全てひっくるめて、それでも糸を切るのならば今だと思った。自分の決断と選択を愛している。いいよ、十分頑張ったよ。自分の力量以上のことを経験させてもらった。信頼して任せてもらった。今は随分と慣れて楽しいし、もうチームを動かすことの楽しさを知ってしまったら一般社員には戻れないなという気持ちすらある。だけど、ここまでくるのに相当苦労した。去年一年は地獄だったし、去年の夏頃に耳が聞こえづらくなって、謎の高熱と胃腸炎を無理矢理一日で治して出勤したときに、ああ私はもうだめだと思った。一旦立ち止まらないと気づかないうちに壊れると思った。割と抱えるタイプだ。私の良くないところ。仕事をうまく振れない、信用して任せられない、後先考えず自分の体力を過信してしまう、人前でかっこつけてしまう、頼れない。

 

その後数ヶ月かけてなんとか持ち直して、今に至る。少しマトモに思考ができるようになって、やっと退職を決断できた。

 

今の仕事はなんだかんだ言いつつも楽しかった。向いているかと言われるとあまり向いていない仕事だったかもしれないけれど、やりがいもあったし、何より周囲に恵まれていた。文句や愚痴を言いたいわけではない。楽しかったし、その分、シンプルにつらかった。いつも何かしらに不満があって、それを燃料に働いていた。いいの、ハングリーじゃないと食べようと思わないし。何を燃料にしてもいいんだよ。よく頑張ったよ。心身ともにゴリゴリ体育会系でのし上がってきた。本当はそんなの望んでいなかったけれど、残念なことに私はゴリゴリ体育会系に適応できるタイプだったのだ。無理だと言いながらしぶとく走り続けてこれてしまった。最悪だ。

 

まだ上司にも言えていないのに、退職の気持ちは日に日に固まっていくし、退職日も近づいていく。

 

けっこう怖い。新卒からずっと勤めてきた会社だ。退職も転職もしたことがない。辞めた後のこともふんわりとしか決めていない。社宅を出てから行くところがない。実家に帰るのか、どうするのか。できるだけ迷惑をかけないタイミングでと思って色々の区切りがついた時期を選んでいるけれど、それでも職場の人に申し訳なさもある。板についてきた仕事、慣れた環境、助けてくれる同僚、安定した仕事と増えてきた収入、手に入れたポジション、そういうの全てを投げ捨ててまで次にすることが大事かと問われたらそうでもない。なんでもよかった。誰でもよかった。右手の手相、運命線が真っ二つにわかれている。もしかしてこの決断はこの線と関係がある?手相見れんから知らんけど。

 

二十代後半の私はどこか色々を諦めたところがあって、捨てられるものをことごとく手放そうとしてきた。一寸先も見えない人間って、失うものがなにもない。人生なんでもありで、こんなちょっとむちゃくちゃな決断も旅行先の空港で思いついてそのまま決めちゃったりする。別に希望がないとか夢なんて馬鹿馬鹿しいとか思っていない。努力すればそれなりに叶うこともあると思っているし、自分のことを信じてもいる。どこにいても何をしても、楽しいことにも苦しいことにも出会うし、それはそれで結構幸せだと気づいている。だけど、根底には「飽きるのが怖い/飽きられたくない」「捨てられる前に捨てたい」「変わらないこと・停滞することが怖い」という恐れがある。ずっとずっと臆病。

 

一人いなくなったところですんなりまわるのが地球です。一人いなくなったところで大して変わらないのが職場です。できるだけ迷惑をかけないようにと作る引き継ぎ書やマニュアルも無意味かもしれないし、私が抱く去る寂しさや申し訳なさも無駄かもしれない。少しだけ感傷的になりながらも、ずっとここにいるよ〜みたいな顔で働いている。これ以上自由なことなんてないと思っていたけれど、まだ自由になりたいと思ってしまうのはどうしてだろうか。愛されたいおばけは旅人になりがちだと言っていたのは誰だった?思い出せない。

 

雑記というのも申し訳ないくらいの雑記

菜の花の黄色が目に飛び込んできた。もう春なんだ。ひんやりした空気の中で、花の鮮やかさが綺麗に映える。季節はちゃんと巡る。私は来年にはこの土地に確実にいない。一期一会の毎日だ。きっともう会わない人、この先思い出さない人、忘れてしまったことも忘れてしまう人。大好きだけどずっと一緒にはいられない人、大好きだけどずっと住み続けられない場所、大好きだけどずっと同じではいられない関係。いつになったら「とどまることが不安」だという病が治るのだろうか。ずっとこのままがいいな、というのが私の口癖で、それなのに「ずっとこのまま」が現実的でないことを誰よりも確信している。「誰のことも信用ならねえ」が、私の心の中の口癖だ。生きるというのは自分の身を守ること。可愛くない、ずっと。

 

あなたもどこか歪んでいると言われるほうが、真っ当だと言われるよりも楽なんだろうなと薄々気づいてはいたけれど、実際そうだった。ああ自分は歪んでいるからこんななんだ、って、どこかすとんと腑に落ちるような、赦されたような気持ちになった。大人になったつもりで、ちっとも私は自分のことを理解していない。最初にくるのはいつも、傷つきたくないという感情。きっと誰よりも傷つきたくないという気持ちは強いと思う。それなのに、自分は不用意に人を傷つける。

 

「真の人間好き」という人間の種類があると思っている。私は残念ながらそうではない。人は好きだ、でも同じかそれ以上に怖い。接客業をしているのに怖い。訓練してもまだ怖い。あとあまり他人に興味がない。そんな私なので、「真の人間好き」を目の当たりにすると溜息が出るほど羨ましくなる。

私は犬みたいな愛らしい性格に憧れているけれど、人に言わせれば我儘な猫らしい。尻尾をぶんぶん振り回して、全身であなたがいないと生きていけないよと表現できればどんなに良いだろう。あっけらかんとした愛情を飼い慣らしてみたい。来世に期待。

 

 

春だからどこかに行っちゃいたくなるよ。白いスニーカーを履いてどこまでも歩いていきたい。春だから走り出したくなっちゃうよ。痛くも痒くもないって顔してるけれど、本当は痛いし痒い。嫌いとか言わないで。大丈夫とか言わないで。私を諦めないで。手離さないで。捨てないで。忘れないで。まあそんなこと一つも言えずに、いつも軽々しい棒読みの「サヨナラ〜」を繰り出すんだけど。頼むから私に何も教えないでほしい。君が言っていた「人参は油で炒めると栄養アップ」みたいなことを、別れた後に思い出してしまうから。

 

 

 

やさしいひと

「優しい人」ってこの世の中に溢れていると思う。でも、「優しい人」ってどんな人なのか正直よく分からない。穏やかなのか、気遣いができるのか、丁寧なのか、他人に興味がないのか。思いやりと無関心は似ている。

 

たくさん心配なことがある。私は周囲の心配ばかりして自分のことを忘れてしまうからよくない。他人の人生、他人の人生、と心の中で繰り返しながらやり過ごす。私が不安になったり悩んだりしたところで何も解決しないんだし。みんな色々起こるよ、人間だもん。でもそれを全て私が抱えようとするのは違う。

 

全然悩み相談してくれないじゃん、と先輩が拗ねていて嬉し可愛かった。ずっと頼りにしている。ずっと背中を追いかけてきた。目指している姿が近い人だったと思う。信頼できると思った。気にかけてくれていることも分かっていた。不満げな先輩に、私、悩みないんですよね〜と言ってヘラヘラ笑ってみた。よくよく考えてみたけれど、本当に言えそうな悩みが一つもなかった。それは先輩が頼りないからだとか言いたくないとかいうわけではなくて、なんというか、言うほどのことなんて何もないなと思った、というただそれだけのことだ。

 

相手は変わらないよ、変わるのは自分。教えてくれたのは誰だっただろうか。

 

その時の一瞬の感情を生かすも殺すも自分次第で、それを言葉にしなければはじめから無かったものみたいになってしまう。未だに私はギブのつもりがテイクテイクテイク。もらってばかりの愛は惨めだ。優しい人は私をダメにする。優しくなくても私は勝手にダメになるけど。狂わずに人を好きになれる人、いるの?

不思議なことに、言葉にするともっと好きになるし、言葉にしなかったらやがて忘れる。言葉はこわい。本物にも偽物にもなる。嘘もまことも作り出せる。大人になってから気づきそうになる前に揉み消す感情が増えたなと思う。初期消火はお手のもの。

 

 

優しい人だ。ずっと一緒にいるとダメになっちゃいそうで、だからいつも深く息を吸うことができない。

 

 

忘れないうちに

・数年振りのまとまった休暇をとって静けさの中でひとりで考える時間をつくったら、久しぶりに「まとも」な考えが浮かんできた。忙しさを言い訳に逃げ続けてきたことと向き合う時がきた。変わろうとしないと変わらない。

 

・働くということは覚悟を持つということだ。覚悟のある人の仕事ぶりはキレが違う。私はどう生きたいのか。生きる上で仕事が大半をしめるのだから覚悟を持ってのぞみたいけれど、命を削るようなやり方は賢くないよなとも思う。日々勉強。貸切状態の温泉で幸せ過ぎる恐ろしさを思った。自分の中で手放すことができないものは何かを再確認して少しメソった。

 

・自分は全てのことに対して「上書き保存」が適用されているタイプだと知った。知識も経験も人との付き合いも、全て。だから新しいことを取り入れた瞬間に古い情報がぽっと消えてしまう。塗り替えタイプじゃなくて積み重ねタイプがよかったなあ〜。何も覚えていないってことが多過ぎる。

 

・好きな人と好きでいてくれる人、どっちを取るべきなんだろう。「遠くの大好きな人よりも近くのやや好きな人だと思っていた私は考えを改めるべきなのか」と呟いたら縄文時代くらいに付き合っていた人がいいねしてくれてて笑った。ずっと認めたくなかったけど、たぶん私たちものすごく感覚が似ている。

 

・仕事をやめる。今までの「やめるやめる詐欺」ではなく、本当に退職する。次に上司に会う機会がある時に話す。たぶん早ければ会うのは五日後。次にやりたいことが何故かすっと浮かんできた。できるできないは分からないし、これから学校通うのかとか現実問題色々出てくるけど、二つのことを同時にできない私はまず今の仕事を辞めないと始まらないことに今更気づいたからそこからスタート。

 

・え、人生ってなんでもありじゃん、ってこと、薄々気づいていた。どこへでも行ける。何にでもなれるかは分からないし、体力とか若さとかそういうリミットは正直なところ誰にでもかかわってくるけど、今ならまだ飛び込めるってことはあって、それは年々少なくなっていく。それならやってみた方がいい。30という節目でやらなければきっともうこの先やらない。そしたら死ぬまで後悔すると思う。

 

・眠い。もう何書いてるか分からない。支離滅裂なことを書いている自覚は少しある。眠い。明日になって読み返したらなんだこれ?となるのだろう。一晩寝ると忘れてしまうタチだから忘れないうちに書こうと思って書き始めたけど眠過ぎるのでおわり。