他人の人生

きわめて個人的なこと

何もない自分を愛したい

自分から良い香りがする。and andのシャンプーの甘い香り。少し甘すぎるくらいに甘いけれど、そのくらいがちょうど良い。

昨年の秋から年末にかけて、怒涛の勢いで日々が過ぎ、何に流されているのか何に追われているのかも分からないくらい精一杯の毎日だった。枕に頭がつけばコテンと眠りについていたし、いつだってとにかく帰って眠りたかった。仕事以外で自分の時間が持てると幸せに感じた。

それなのに今は、その時期の半分も働いていない。物足りない。働いた気がしない。一日をスッキリ終えられない。こんなの馬鹿げている。日ごとに忙しさはあるわけで、仕事だって山積みなわけで、それでも全体の仕事のペースが緩やかになり働く時間が短くなっただけでこうも変わるのか。一日、自分が何を成し遂げられたか考えた時に、何も無いように感じてしまう。そんなことないのに。やれるだけやったのに。精一杯頑張ったのに。こんなに心だけは疲弊しているのに、身体は元気いっぱいでおかしい。ただ、健康的な働き方に戻っただけというのに、そう言えば私の人生なんてずっと何かに追われていなければ私の日常じゃなかった気がする。

物心ついた時から時間は「足りない」「追われる」ものだった。学校に行く前の朝の準備はせかせかと、授業の前は遅れないように小走りで、給食は居残りにならないようにばくばく食べる、授業が終われば走って部活へ、家に帰ったら課題をして、予習をして、テレビなんて観ていたらあっという間に夜で、寝る時間で、お風呂は作業で、ドライヤーは時間の無駄だから嫌いで、だからというわけではないけれど万年ショートカットだった。大学に入っても授業が終わったらダッシュでモノレールに乗ってバイトに行って、最終モノレールの時間ギリギリまで働いていた。目の前で最終モノレールのドアが閉まったことも一度や二度じゃない。家に帰ったらレポートを。コタツで寝落ちして起きたら一限ギリギリ。そんな日々に慣れていた。何もしていないのが怖くて寂しくて、出来るだけ何かを残そうとしていた。今も多分そう。

使いもしない資格をとってみたり、興味もない分野の本を読んでみたり、行ったことのない場所ばかりに興味を持ったり、そういうのは全て私が生きた形を残したいからなのかもしれない。本当は何もない自分を愛したい。仕事が閑散期ならばプライベートを充実させなくちゃと躍起にならなくても良いのだ、ほんとうは。今日は一日中お布団でゆっくりできてよかったねえ、でも良いのだ。働く時間が短くなったから帰りにコーヒーでも買って家でゴロゴロテレビ見たり本読んだりしようかな〜、で良いのだ。無理に頑張って何かを成し遂げようとかしなくて良いのだ。分かっている。分かっているけれどどこか許せない。勿体ない、そんな時間の使い方したら勿体ない、時間は「足りない」ものなのに。

考える。私の時間は、周囲より少し速く進んでいる。ただ、それだけ。密度があるわけではなく、少し速いだけ。それだけ。落ち着きたい。もっとゆっくり、丁寧に、自分の一挙一動を見つめて、それだけを認めて、受け入れて、そういう時間を持ちたい。何もない自分を愛したい。精進も邁進もしていない自分も自分だと早く許してあげたい。考えたって仕方のないことは考えてもどうしようもないのさって耳元で口笛を吹いてくれる妖精を飼いたい。