他人の人生

きわめて個人的なこと

過去とか今とか未来とか

過去に書いたものを次々に消して、新たに同じようなことを書き連ねる、その繰り返しだ。記事を消したとて、アカウントを消したとて、生まれ変わった気持ちになるのは一瞬で、地続きの自分がいるだけなのだとは理解している。定期的に生きる場所や付き合う人をかえないと、うまく生きられないのは、欠陥だろうか。いつかボロが出るのが怖いのか、いつか裏切られるのが怖いのか、踏み込んだり踏み込まれたりするのに怯えているのか、色々と考えてみたけれど、単に面倒なだけなのかもしれない。生活が、人間関係が、様々に思い悩むのが。今ある環境を捨てて別の場所を探すことでそれらから逃げようとしているだけなのかもしれない。

 

メンタルが強い、と、言われることが多い。そう見えているのならば少し誇らしいが、別にメンタルが強いわけではない。強くいることが役割だからそうしているだけで、ある日すっと消える願望は消えたことはない。

 

自分の存在価値について考える。特になし。毎日頑張っている。でも、だから何?誰になりたいかって?私は誰にもなりたくない。何のために生きているのだろう、誰の役に立っているのだろう、思い巡らせ始めたらキリがない。ずっと拗ねている。生まれてから今日まで、ずっとずっと拗ねている。ちゃんと主張したり泣き喚いたりすればいいのに、私はずっと静かに拗ねていて、それに気付かれず、さらに押し黙る。よく考えたらやりたいことも特にないし、欲しい物も見つからない。毎日ちょっとスキップしたり、トボトボ歩いたりを繰り返して、このまま幼い精神で老いてゆくことが少しだけこわい。

 

さいきん向田邦子のエッセイをちょくちょく読んでいて、「記憶や思い出というのは、一人称である。」という一文がやけに残った。

 

私の目にうつって私の心に残った過去は、あなたにはどんな風にうつっていたのだろう。そしてそれはどんな風に変化して、どんな記憶として今あるのだろう。

 

 

懐かしいプレイリストを再生してみたら、心がギュッとなった。人は変わってゆく。私はそれがとても好きで、同時にとても寂しい。皆変わってゆくものよ。私も。それなのにどうして、ずっと一緒にいたいって言葉を欲してしまうのだろうか。まだ29歳ではあるけれど、これから一人で生きる覚悟はある程度できていて、十年後には黒猫か柴犬と暮らす未来も描いていて、今の仕事をしっかり落ち着かせることができたらあと数年で退職したいとも考えている。誰かと一緒にいる未来が想像できない。

 

 

幸せってなんなのだろう。「幸せの文字が¥を含むのは何でなんでしょうか」とヨルシカが歌っている。セブンでお釣りの3円を募金箱に入れて、たった3円が誰かのためになるのかは分からないけれど自分の心は救われている感じがするなと思った。

 

 

争いたくない。こんなこと言うと生ぬるいと言われるのかもしれない。物事を思考していないと批判されるのかもしれない。それでも争いたくない。いちばんの理由は、面倒だから。あと、争いや人の怒りを見るのはストレスがたまるから。すべては自分を守るためだ。イライラしている人が怖い。平気で他人に暴言を吐く人間が怖い。強い怒りを持ち、そのパワーを周囲に何の戸惑いもなくぶつける人間が理解できない。とにかく怖い。私は人と接する時、大半が内心ビクビクしていると思う。向いていないのだ。心を許した、と思えたことなんて数えるくらいしかない。

 

分かり合えないことを嘆くのはよそう。もっとこの目で見た方が良いものがきっとたくさんある。さよならは上手にしよう。清々しく、やわらかく、さっぱりと。変わってゆく人に執着しすぎないようにしよう。私だって随分変わってしまったからね。前みたいな文はどう頑張っても書けないし、その頃のメンタルなんて忘れてしまったよ。コインランドリーで洗濯が終わるのを待ちながら、江國香織のエッセイを読んでいるとき、二度とあんな夜は来ないだろうなと数年前のことを思った。思い出は一人称、どんなにキラキラしていようが、忘れられない出来事だろうが、私はいつでも今がいちばん大事だ。幸せなことに、戻りたい夜なんてひとつもない。