他人の人生

きわめて個人的なこと

知らなくていい

ずっとくしゃみしている。一回一回のくしゃみに迫力がある。かわいいくしゃみの習得にはまだまだ時間がかかりそうだ。気づいたら秋が来ている。虫の声がする。花火も見ず、かき氷もスイカも食べず、海にも行かず、賑やかで寂しく、しっかりと愛されたかった記憶だけの不健康な夏が終わる。秋は夏よりも分かりやすく寂しくて良い。星が綺麗に見える。心地よい夜。ずっとくしゃみしている。

 

追い込まれ度としては生きてきた中で一番かもしれない。これまでも辛くてどうしようもなかったことはあったし、目に見えて元気をなくしたり泣き喚いたりした日があったし、今はそんなに酷くボロボロになってはいない。私が強くなったから。当社比。サイレントに苦しんだり、そこら辺の人に愚痴や弱音をこぼしたりしながらのらりくらりやり過ごしている。右耳がずっとおかしい。耳は自分の数少ない自信のある部位なので、聴力が鈍るのはかなり困る。利き耳が左なので今のところ助かってはいるけれど。しっかり休んでしっかり眠れば治るのだろうと思う。これまでもそうだったから。もう少しの辛抱だと言い聞かせて何ヶ月経っただろう。心が良くない方に傾く。自分を責めても何の意味もないのに、ダメなところばかりが浮かぶ。反省は必要だけど、自分をおとしめる必要はないと言われて、その言葉は救いだと思った。大丈夫、心の奥底ではちゃんとわかっている。今は少し疲れているだけ。私はなんだかんだで生きていける強さがある。

 

上司でも同役職でもない相手に弱音を吐くのは違うと思う。それでもついつい甘えて言うべきではない相手に弱音を吐いてしまうし、それがないと駄目になってしまっていると思う。たくさんの人が助けてくれる。たくさんの人が味方になってくれる。たくさんの人が頑張っている。私は頑張って前を向きたいけれど、今どこが前なのかわからない。明確な目標のない私のこと、私が一番不安視している。このままじゃいけないのに、自分の個人の状況と、周囲に見せる背中は分けなければならないのに、なんだか理想ばかりにとらわれてうまくいかないことばかりだね。

ダメなところにも弱いところにも十分ぶち当たったし、もうこうなったらとことん自分のありのままを見ればいいよ。いつか諦めはつくよ。弱音を吐くたびに自分が嫌になる。言わなければよかったって後悔するくらいならはじめから言わなければいいんだよ。言って軽くなるのは一瞬で、その後に倍になって重くのしかかってくる。それをわかっているから言わないこともたくさんあって、そうだ、元々私は悩みを発散するよりも、自分でむしゃむしゃ食べるタイプだったじゃんと思い出した。

右耳がずっとぼんやりしていて、秋みたいにくすんでいる。それでも歌いたくなるし綺麗な音を拾いたくなる。生きるという行為はしぶとくて大好き。才能も人の心も愛情も、当たり前に手に入らないものばかりで伸び代しかない。他人から与えられる安心ってどこに落ちているのだろう。性善説で生きているはずなのにいざという時に信じられないのってどうしてだろう。そんなことを考えながら夜の新鮮な空気を吸って、私はこれからきっとどんどん元気になっていく。

 

 

 

書けない毎日

全体的にしんどい。体感としては、生活の8割以上を仕事が占めている。当たり前に定時で終わる業務量ではないし、問題が次々に降りかかってくる。一難去ってまた一難、のペースで来て欲しいのに、難難難難難!!!!!!とお構いなしに襲ってくるのでどうしようもできない。ねえ、私はいつになったら安心して休めるのでしょうか。年度内に目標達成して退職するという決意は忘れてしまった。目標達成どころじゃない。ギリギリ、生きている。余裕がほしい。

 

だけど、ひたすら仕事をしているから向き合わずに済んでいる問題もたくさんある。なんなら、向き合うことから逃げて仕事ばかりしているようにも思える。これからのこと、方向性も生き方も時間のつかいかたも親孝行も老後のこともお金のことも、あらゆる考えるべきことから逃げ続けている。

 

こんなはずじゃなかった、って思いたくない。今の仕事ばかりの生活は、今の自分だからできることだとわかっている。これも一つの人生勉強だとも思っている。だけどこんな働き方、ずっとは続けられない。この先、きっと体力にも限界がくる。若さと勢いだけでは許されないことも多々出てくる。周囲も変わっていく。どこにいても、「ずっとこのまま」なんて生ぬるい場所はない。

 

本当はちゃんと考えたい。計画もたてたい。じっくり思いを巡らす時間がほしい。一度心を落ち着けて信頼できる人と話をしたい。行ってみたい場所に行ってときめきたい。人と会って穏やかな時間を過ごしたい。自分のために手の込んだ料理をつくりたい。誰かのために何かをする時間をつくりたい。本を百冊読みたい。グランドピアノを弾きたい。空を眺めたい。でも、今はできない。限られた時間を「労働」に充てることを今の自分は選んでいるから。これが正解か間違いかはわからないけれど、選んだ道を正解にしたいと思う。嫌いじゃないんだよ、働くことは。ただ疲れ過ぎているだけ。もう少し器用な人間だったらよかったなあ。でも今さらそんなこと言っても仕方ないか。

 

まだまだつらい日々は続くし、目の前に片付かない量の仕事も問題もあるし、家に帰っても当たり前にひとり。あーあ、帰ったらおかえりって言われたいよ。どんなにしんどい毎日でも、眠る前におやすみって言えたら安心できるのに。わかりやすく必要とされている実感がないのって実は寂しがり屋な人間にとってはけっこう堪える。それでも、自暴自棄にならないで。助けてくれるみんなに感謝をして。あとは、一番に自分の体と心のことを考えて。自分をいちばん大事にできるのは自分しかいないんだから。あとひと踏ん張りしたら休みたいだけ休もうね。あなたは十分頑張ってるよ。

 

 

 

 

喉が腫れていて痛いのに加えて、舌の奥に口内炎ができており、食べるのはもちろん飲むのすらやっとの数日間を過ごしている。とにかく痛い。喉が渇いても一気飲みはできない。食事も苦痛。話すのもつらい。原因は栄養不足だという自覚はある。コーヒーと栄養ドリンクとウィダー的なもので腹を満たしていて、野菜なんぞ一切口にしていなかったから。ストレスもあったし、睡眠も足りていなかった。この生活習慣のせいだとはわかっているのだけど、生活を整える余裕すらない。帰宅しながら悲しくなる。これって私の「幸せ」なのか?今の私は「幸せ」なのか?なんのために生まれて何をして生きるのかわからない。あんぱんまん、もう足ぱんぱんまん。疲れた。眠い。悲しい。癒してほしい。寂しい。あったかいご飯が食べたい。でも食べるのは口が痛いからつらい。慰めてほしい。休みが欲しい。大丈夫じゃないと弱音を吐かせてほしい。安心して泣きたい。そんな弱気になる数十秒、床に頭がついたら即ダウン。翌朝は何事もなかったかのように元気に仕事に向かう。

 

話したい。どうでもいいことを。正気に戻りたい。そうしたら今のままじゃだめだってちゃんと理解して行動に移すことができると思うから。働いている自分が好き。頑張る自分が好き。自立した自分が好き。だけど、無理しすぎる自分は嫌い。だからここ数ヶ月の私はとてもイケてない。うまくいかないことばかりで神様に文句を言いたくなってしまう。いつになったら報われるんだろう、いつになったら安心して眠れるのだろうって毎日考えている。友人が立て続けに結婚報告、出産報告を届けてくれる。喜びや祝福の気持ちの後にやってくる、足下がふっと浮くような心細さを認めざるを得ない。このままずっと一人なのだろうか。話したい。どうでもいいことを。自分に戻る時間がほしい。自分に戻してくれる人と一緒にいる時間がほしい。もうこりごりだ。私は確かにタフで強くて健康で頑丈で何にも考えていないように見えるけど、本当は湯葉メンタルだし色々考えてモヤモヤするし体も重いし頭も痛いし毎日逃げ出してしまいたい。目の前にニンジンぶら下げてもらえないと頑張れないような人間なのに、腐ったニンジンを目指して無理矢理走ってる。どこへ行っても地獄。地獄。地獄。みんな大変なんだよとかあなたよりも辛い人はたくさんいるんだよなんて言う人はぶっ飛ばす。そんな慰めは自分で日々やってるんで。いい加減大事にしてください。大事にされたい。つらい。頑張るけどつらい。むり。むりじゃない。明日も元気に頑張ろう、私も頑張らざるをえない君の仲間だよ。

 

 

 

N33

誰もが好きそうな薄いラメ入りのピンクのネイル、調べてみたら、けっこう前に廃盤になってしまったらしい。かわいいと思われたくてこういう色を選んでいた時期もあれば、ただひたすら自分の好きな色を選んでいた時期もある。最近はずっとモスグリーンかゴールドにしていたので、気分転換にラメ入り薄ピンクを塗ったらなんだかとても似合わなかった。

 

中身がガサツで勝気で切れ味が良いことを気にしていて、外側でバランスをとるために制服はパンツではなくスカートをチョイスしているし、マスカラでまつ毛を伸ばすし、ピンクの小物を使う。でもそんなの全然意味がないって分かっている。人の気持ちがわからない、優しさの分量が人よりも少ない、相手の立場になって考えられない。少し立ち止まったときにいつも自分の優しくなさに辟易する。ドライだ。スーパードライ。冷たいとすら言われるし、自分でもなんとなくそう思う。

 

皆に好かれようなんて思っていない。優しさってよく分からない。自分にとっての当たり前が他の人の当たり前だとは思わない。ただ静かにひっそり生きていきたいだけなのに。全部共有したいとか過去のこと全て聞きたいとか個人的な話をしてほしいとか思わないし、私もしたくない。

 

私のことを聞かないでくれ。何も面白くない人間だし、言えそうなことなんてないし、ネタも持ち合わせていないし、好きなものも嫌いなものも特に理由はなくて、人にもそこまで興味なくて、ただぼんやりしているだけなんだよ。マイペースに人の話を聞いてへえ〜って思っているだけだよ。私は浅くて掘っても何も出てきやしないよ、だから深入りしないでね。悩みは相談するものだって決めつけないでね。ここまで約三十年、大した悩み相談をしてこなかったけれど、自分で消化して生きてこれたよ。寝たら忘れるんだよ。信頼していないとかではなく、私はそういう性格なんだよ。理解してとは言わないから、そういう人間もいるんだなって思ってくれたら嬉しいよ。

 

今夜は星が見えない。梅雨はいつあけるの?

誰とも交わさない言葉が夜に吸い込まれていく。

窓をあけて通り過ぎる電車の明かりを見ていた。ごめんね、私だって嫌だよ、自分のエネルギーが内にしか向いていないこと。これからどうあがいても変わりそうにないこと。

 

 

日記のつもりが映画の感想文になった

※映画「君たちはどう生きるか」のネタバレ、個人的な感想が含まれます。お気をつけください。

 

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今日こそ足の爪を塗り直すと決意するのに、同じ決意を毎日繰り返しているだけでどんどん爪の根元が見えてきている。こんなにうだつの上がらない生活をしていても、心身ともに自分の成長を感じない日々を過ごしていても、ちゃんと自分が生きていると爪がのびるというこんな小さなことで実感する。

 

多分、停滞期。目標と目的がこんがらがってしまって、生産性のないことを繰り返してしまって、何も成し遂げられないという焦りばかりが増えて、体も心も少し疲れている。誰を信用すればいいのかわからない時って、大体自分のことも信用できていない時。人に向かってニコニコする度に、ぜーんぶ投げ出したいなあ〜って毎日思っている。投げ出さないけど。真面目にやるけど。自分の停滞感や意識の低下が周囲に伝わるのはまずいなとも思っている。よくない雰囲気は一気に充満するから気をつけないといけない。それでも自分という一人の人間を保つだけで精一杯になってしまう夜ばかりで、少し気を緩めると泣いてしまいそうな日々。頑張りたくねえ〜。私には荷が重い。自分でやるって言っておいて今更何言ってんのって感じだけど。メンタルが強いねとこれまで何度も言われてきたから、メンタルが強い人でいなければならなくなった。最悪。

 

ここ数日家でご飯を作って食べていたら肌荒れが少し改善された。肌荒れの原因は荒れた食生活と荒れた睡眠だとは予想していたけど、ここまで影響していたとは思っていなかった。自分のためだけに毎食料理をつくるなんて面倒だと半年くらい自炊をほぼ放棄してきた。冷凍うどんをチンしたり、ご飯に卵かけたり、そうめんを茹でたり、工程が少ない作業じゃないと自分のためにしようと思えない。そうめんを茹でるのも茹でた鍋を洗うのがつらい。だからここ数ヶ月は冷凍うどんをチンしてめんつゆをかけるなどという野蛮な食事ばかりしていた。食生活がこんなんだから、それが他にも影響して、ご自愛が超絶下手くそになっているのではないだろうかと考える。

 

 

一昨日、君たちはどう生きるかを観た。友人に「週末に観にいくんだけどどうだった?」と聞かれて、うーん、謎...としか答えられなかった。二日経った今でも謎である。私は映画に詳しくないし、ジブリ作品を全て観たわけでもない、宮崎駿監督のこともほぼ何も知らない、あと作品を一度観ただけでは内容が完全に入ってこないという映画を語るには最も向いていない人間なのだけど、「謎」というだけでは無責任な気もして、少しだけ感想を書く練習をしようと思う。

 

話は逸れるけど、「謎」というだけでは無責任な気がするという気持ちについて書いておく。最近仕事でも生活でも「謎」と言うことが多くて、謎を謎のままにしてしまっていることに罪悪感が少しだけある。今までも謎を解決せずにふわっと荒波立たず生きてきた自覚がある。仕事の業務内容関係だったらマニュアルを引っ張り出したり電話して聞いたりして解決するけど、それ以外の人間同士で引っかかったところだったり、賛否両論ある話題にぶち当たったりしたときに、「謎」と思ってその「謎」がなぜ「謎」なのかを深く考えるのを避けてきた。理由は面倒だから。私は生粋の面倒くさがりやで、多分人間世界で上位一割に入るレベルだと思う。でも、そろそろちゃんと考える力をつけなきゃいけないと思う。考えが足りないからふわっとしたことしか言えないし書けないんだと自分のウィークポイントを自覚している。このまま自分の考えを表明できない、芯のない人間でいいのか不安もある。「謎」と思った時に、「何故」を分析できる人になりたい。

 

 

話を元に戻す。

ここからは映画の感想を思ったままに書くので「こいつ何にも理解してないな」「映画のこと何もわかってない」「自分はそうは思わん」などと感じる人が多いと思うけれど、あくまで個人的な感想だということを前提として読んでくださる方は読んでください。

 

 

まず最初にぶち当たった私的「謎」は、マヒトの父とナツコの関係。なんか急にナツコさんが駅にマヒトと父を迎えに来て、マヒトの父は仕事に行って、マヒトとナツコ二人きりで家に帰ってて、ナツコのお腹に赤ちゃんがいるってナツコがマヒトに言うところ。その流れが個人的にんんん???ってなって、わからんかった。最初は、マヒトの父は一夫多妻的な感じで、ナツコさんがマヒトの父の第二の妻だったってことか?それかナツコさんも戦争で夫を無くしてマヒトの父と再婚して正確にはマヒトの父との子ではないってことか?と思ってたけど、ナツコはマヒトの母の妹って出てきて、んんん???である。マヒトの父は、マヒトの母が亡くなった後、その妹と結婚したってこと?本当にこの解釈で合ってる?って、多分普通にそういう設定なんだけど、自分はその流れが受け入れられなくてびっくりした。自分がマヒトだったらめちゃグレる。マヒトも石で自分の頭殴ったりとかして多少グレてたけど。自分だったらナツコが行方不明になっても助けにいかない。たとえ自分の本当の母に会えるかもしれないとしても行かない。心のどっかでは母が亡くなったことは理解してるはずだから。だからマヒトのしなやかさというか対応力というか、そこに感心した。

 

アオサギは、多分ものすごく弱い人。強いものの皮を被っているけど、中身は人間そのもの。強いものにへこへこして、弱いものに偉そうで。自分だけでは何もできない。不安なんだと思う。人間の嫌なところ煮詰めてる感じやなと最初は思った。でも人情みたいなのもあって、次第にマヒトとちゃんと対話できるようになる。きっと相手がマヒトじゃなかったらアオサギもあんな風にならなかったと思う。出会う相手、関わる相手、直面する環境によって人は変わるってことだよなあ〜と思った。

 

大おじさんは、アオサギよりももっともっと、この映画の中でいちばん弱い人。自分の作り上げた世界をマヒトに継いでほしいと思っている。でもきっと、マヒトが継いだからといって自分が作り上げてきたものがそのまま遺るはずがないとも気づいていて、そこに寂しさのような無念のような気持ちを抱いている。マヒトに継いでほしいという気持ちやこれまで作ってきた世界が自分のエゴだということも分かっているけれど理解したくない気持ちもあるんだと思う。わからんけど。頭が良すぎる人が抱える孤独みたいなものってあるよなあと思う。頭が良すぎるあまり他者とうまく対話ができずに自分の世界を作ってそれを動かす人。それは作品としては美しいけれど、内容的にはかなりグロテスクではあるよなあ。インコ隊長が破壊してくれて結果的にはよかったし、本当は大おじさんも無関係な存在がこんなふうにぶっ壊してくれた方が都合がいいなって思ってたのかもしれないと私は思った。綺麗で緻密で美しくて素晴らしいものほど壊すタイミングが見つからないし、引き際も考えるし、もう元には戻れないという怖さのようなものもあると思うから、ぶっ壊されたら楽だもんね。楽になりたかったのかもしれないね。

 

マヒトは、ナツコを助けて上の世界に戻ってきたあとどんな風に過ごしたのだろう。大冒険をしたからといって人は簡単に変われるのだろうか。第一、あの父親と一緒に暮らすのってかなり至難の業だと思う。マヒトの父親、かなり身勝手じゃない?個人的には、マヒトの父親は生理的に無理だった。マヒトへの声かけや愛情表現(?)もめちゃくちゃ的外れだったし、身重のナツコに重いスーツケース渡すし、工場の人たちにも偉そうだし、良かれと思ってやってることが全て迷惑な人だと思った。言い過ぎか、ごめん。マヒトは母親のことも一旦は腑に落ちてしっかり心の中で母の死を受け入れて、反発していたナツコからの愛情も受け止められるようになった。でもみんなマヒトに負担かけすぎだよ、もっと子ども子どもさせてあげてよ、美談に見えるかもだけど、マヒトだからできたことだよ、マヒトだからできたとも言いたくないけど、我慢を強要するのも大人になりすぎるのもよくないよと心がギューっとなった。マヒトがヒミに渡されたジャムパンを食べるシーンで安心して泣いちゃった。まだ子どもだよねえ...って。

 

あとは、インコたちの生活やペリカンたちの生き様、弱肉強食の世界、命が巡っていく様子。この辺は辛い部分もあったけれど、自然や美しいシーンも多くてきれいだなと思いながらぼんやり見ていた。世の中には完全に悪だと言い切れるものって少なくて、ペリカンたちも生きるためにいのちを食べないといけないし、殺傷ができない下界のものたちのために魚を獲って捌く役割の人間がいるし、戦わないと生きていけない現実はある。マヒトも作中でなんとなくそれに気づきはじめていたよね。

 

子どものヒミはかわいかったね。そして勇敢だった。マヒトにもその強さと優しさみたいなのが受け継がれているんだなと思った。母親でも大人でもなんでも子ども時代が絶対にあって、体が大きくなっても大人になったとしても、みんな大きくなった子どもなんだよなあと思った。自分が大人と言われる年齢になってわかる、みんな大人の振りしてるだけで、長年の経験で大人の真似する方法を覚えただけで、子どもの頃とそんなに変わっていないんだよ。

 

大おじさんの世界がぶっ壊れて、表情や言葉を持っていたインコたちが普通のインコになって実世界にぶわあって戻ってきたシーン、画はすごく綺麗だったけどなんかざわざわした。世界線によっては言葉や感情を持つ生物が違うかもしれなくて、マジョリティとマイノリティが入れ替わって、当たり前が当たり前じゃなくなるんだと思ってざわざわした。インコたちが牛耳る世界、人間が牛耳る世界、神が牛耳る世界。私はたまたま人間が牛耳る世界に人間として生まれてきた。この映画を観ている人たちも同じ境遇で、じゃあこの世界でどう生きるの?って話よね。ちがうか。考えすぎか。

 

千と千尋でいうリンさんみたいな人が出てきた。私はリンさんがとても好き。これは余談。

 

 

私はこの映画を観ながらずっと「君たちはどう生きるか」っていうタイトルについて考えていたんだけど、それを考えさせるためのタイトルだったってことでいいですか?正直、作品中には明確な答えはないと思っていて、ただ、このタイトルにすることで私みたいに「どう生きるか...?」と考えながら観る人がいるわけで、それを各々で考えてくれ!ってことかなと受け取った。人によって印象に残ったシーンがそれぞれあると思うので、それが「どう生きるか」の答えのひとつとして導き出されるのかな。

 

 

色々書いていたらまとまらなくなりました。好き勝手に書きすぎた気もする。日記のつもりで書いていたけど、蓋を開ければただの映画の感想文だった。

 

久しぶりにちゃんと分量書いた。その日の感情なんて寝たら忘れるんだから、考えを深められる時にしっかり深められるように訓練したい。

 

 

おわり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言わなくていいこと、言わないほうがいいこと

ご飯の食べ方綺麗だねと褒められた。上品に食べるね。妻は、箸の持ち方とかそういうの滅茶苦茶なんだよね、と続いた。後半はひとりごとみたいに聞こえたから、返事はしなかった。

 

「嫁」とか「奥さん」ではなく、「妻」と呼ぶ人なんだなと思った。私はちゃんと「妻」と言える人が好きだ。

 

可愛がられていることも、癒しだと言われていることも、気にかけてくれていることも知っていた。だからその役割をまっとうしたかった。それだけだった。それで自分自身の気持ちもそれなりによかったし。可愛いと言われるのはいつだって嬉しいし。

 

祝うと呪うって似ている。てかほぼ同じ。

 

結婚って不思議な制度だなと思う。箸が上手に持てるとか持てないとか結局関係なくって。あんなに愛おしそうな声で電話をする人いるんだと感動すらおぼえた。尻に敷かれてるんですよねとヘラヘラ言っていた横顔がまさに幸せそのもので胸がぎゅっとなった。私は死ぬまでにこの気持ちを味わうことができるのだろうか。

 

勝つとか負けるとかではないのだけど、選ぶとか選ばれるとかでもないのだけど、どうしようもなく惨めになってしまう瞬間がある。どんなに通過点で私が褒められたとしても、その先、最終的に選ばれるのは必ず私じゃない別の子だ、ずっとそうだった。褒められるのではなく、選ばれたかった。選ばれることはないのに気休めに癒しを提供するようなちょうどいいだけの存在になってしまったと理解したとき、一瞬だけ満たされた気持ちになって、その後とてつもなく消えたくなる。このジェットコースターも慣れたもんだね。こういうのは、モテとは言わない。

 

あの日、都合の良い人間に成り下がらなくてよかった。街灯が明るすぎて眩しかった。数時間眠ったらぜんぶ忘れた気になった。後ろめたさよりすがすがしさがあった。愛ってなんだろうと考えて、私にはまだない覚悟のことだなと気づいた。私は自分の馬鹿正直さを愛している。愛する相手がいる人間に興味なんかない冷酷な人間でよかった。人が手にしている綺麗に見えるものは、自分が手にすると途端に汚れてしまうって知っている人間でよかった。

 

君の苦手な食べ物をひとつ知ってしまった。忘れたくない、より、忘れられない、の方が数倍強い。

 

 

 

 

 

 

 

気まぐれな劣等感

ネガティブハッピー、前向きな根暗と自分を表すことが多い。スーパーポジティブでもないし、元気もない、覇気もない、気を抜くとめちゃくちゃ声が小さい。腹から声が出ていないと子ども時代から何度言われただろうか。

自分のことは嫌いではない。生きてるだけで偉い!私はすごい!頑張り屋!と謎に自己評価が高い時もあれば、自分の存在が受け入れられないと否定的な気持ちになることも多いし、気まぐれに劣等感がやあ!と顔を出すし、自己肯定感が極度に低い時もある。「躁」の時は調子が良すぎるし、通常モードの時はマイペースに自分を嫌っている。

 

これだけならば、自分の性格なのだと諦めて付き合っていくだけなのだが、厄介なのが、メンタル激落ちモードの時に他人と関わり、人を振り回すことだ。喋っていないと不安、みたいな状態に陥った時、すぐに紙やブログに書くことができればいいけれど、そうでない時、たまたま隣に話しやすい人がいた時、悩んでいることをぽろっと口に出してしまう。元々私は人に悩みを相談しないタイプだし、弱そうな弱音(表現がおかしい)も吐かないタイプだし、人を信用していないところがあるので内心を全て打ち明けない臆病者だ。そういう人間がぽろっと口に出すので、やけに深刻な感じになる。言ってしまってから後悔する。自分らしくなかったなと反省する。一瞬の気の迷いで寄りかかった相手の時間と労力を奪ったことに自己嫌悪する。

この一連の流れを書いていて、我ながら意味わからんなと思う。

 

正直に言えば、ここ数年間は仕事に依存してきた。結婚を逃して、自分的大恋愛が終わって、もう仕事をやるしかないなと気合いを入れて、逃げるみたいに仕事をした。仕事で自分の居場所をつくろうと思った。私はいつも何かに依存している。それが仕事の時もあれば、恋人のこともあれば、まったくの他人のこともある。今仕事がなくなるときっと存在価値がわからなくなる。誰かに教えてもらわないと自分ではどうすればいいのかわからなくなると思う。それがこわい。たくさんの依存先があれば一つくらい失ってもこわくない。だから依存先を増やしたい。増やさなきゃいけないと思う。あと、依存先イコール自分の存在価値だという思考をやめた方がいい。ずっと頭ではわかっているつもり。だけど、自分が持っていないもの、無くしたもの、嫌いな部分ばかり見てしまう。他人に自己肯定感を上げてもらおうだなんて考えるな、自分で自分の価値を高めろ。そんなの、わかっている。わかっているのと、できるのは、違うのだ。