他人の人生

きわめて個人的なこと

あなたには絶対に依存したくない

と思っている時点で、結構深いところまで足を突っ込んでいると思うのは私だけでしょうか。

 

数日前、転居の手続きで市役所に行き、待ち時間がそれなりにあったので過去のはてなブログを読み返していた。書いたそばから忘れていくタチなので、読み返すとき、新しい自分と出会い直すような気持ちになる。過去の自分は今の自分とは別物で、常に「私」は、「今現在の私」ただひとりだとしみじみ思う。

 

心が壊れる瞬間って、どんななのだろう。偶然、ほんとうにたまたま運が良くて、私はなんとか毎日働いていて、もうダメだと思ってもどうにかなって、今ここに生きている。実際、もうダメだポイントはこれまでたくさんあって、夜に眠れないこともご飯が食べられないことも山のようにたまったラインの通知を確認できないことも涙が止まらない日も通ってきたのに、もうダメと思ってもなかなかダメにならないのが人間の不思議だと感じる。でも、ある日突然「もう本当にダメだ」って日がきっとやってくる。それが来るのが怖くて、ダメにならないようにすごく気をつけている。だからと言ってうまくいくとは限らないけれど。

 

私は舌打ちをする人が怖い。苛ついている人が側にいるとどうしようもなく心が縮んでいく。自分に向けられていない悪意も怒りも強い気持ちも、すべてまにうけてしまう。かなしい。言葉があるのに伝わらないことばかりで、声は聞こえるのに気持ちがわからないことばかりで、とてもかなしい。この人には安心する場所があるのだろうか、話せる相手がいるのだろうかって心のうちでお節介ばかり焼いてしまう。結局は自己満足だ。誰かに幸せでいてほしいのも、安心してほしいのも、笑って過ごしてほしいのも、すべて自分が安心するためだ。怒って傷ついて苛ついている人を私が見たくないだけなのだ。

 

 

私のことなんて忘れてよ。少しは優しくしてよ。心配なんかしないでよ。

 

手に入れても手に入れてもなんだか足りない。今、自分が何に飢えているのかもわからなくて、きっとまるごとひとつ心が手に入れば解決するんだろうなと想像するけれど、心のまるごとひとつなんてどこに売ってあるのだろう。人は心を量り売りする生き物だと思っている。優しさも量り売り。少しずつ少しずつ色んなところから優しさを手に入れてつくるからこそ綺麗な丸になる。まるごとひとつの優しさなんて優しさとは呼ばないよ、ただの依存で、暴力だよ。

 

なんにもできない。なーんにもできない。言葉足らずで損していることを理解していても、理解するだけだ。大事なことは口に出さないと逃げていってしまうのに、大事なことを言おうとするほど声は出ない。どうか、明日も生きていてね。私にズブズブに依存していてね。