他人の人生

きわめて個人的なこと

だらしないおとな

たまに突然すべてを投げ出したくなる。朝でも昼でも夜でも。つけっぱなしのテレビから流れている情報に一喜一憂しては知らぬ間に涙が出てはくるのに、肝心の自分は善人ではない。体中の水分が足りない。毎分毎秒、渇いている。何もかもをギリギリまで先延ばしにして、何もかもをギリギリまで我慢してしまう。田舎に吹く風は心地よく濁っていて、小さなことに目をつぶれば呼吸はしやすいのだろうと思う。過去のことは殆ど忘れてしまったし、人にも物にも思い入れもない。変わっていくものを静かに傍観しているだけ。いつも私は部外者だった。それが楽でよかった。自分の手中にあるとキラキラしなくなってしまうものがこの世にはたくさんあって、結局皆、特別でありたいとどこかで願っているのだろうなと思う。

 

「誰しも欠点があります」と書かれたおみくじを結んで帰ってきた。他人の欠点を許すことができないのは、自分の欠点を直視できないのと似ている。誰も悪くないのに誰かが傷つく世界だから、なんだかとてもよろしくない。スーパー平和主義だと言えば聞こえはいいけれど、平和主義なわけじゃない。なんだかずっとむなしいよ。恵まれて幸せに育ってきたはずなのに、周囲に支えられて生きてきたはずなのに、いつもどこかで冷めている。

 

寄ろうとしてやめたコンビニ、聞き取ることができなかったフレーズ、相手が笑って誤魔化したのにしっかり気づいてしまったのを悟られたくなかった記憶、不要な情が無駄に混乱を招くと知っているのに切れない優しくない優しさ。また帰ってくるよ、と、もう帰らない、を交互に思う。大好きと寂しいは共存するし、思い出したくない過去と笑っている現在も共存できる。私はたくさんの人から愛されてきた。優しくされてきた。助けられてきた。でも、その事実と自分の中で寂しさが消えないことは関係ない。ひとりは楽しい。ひとりは楽で、ひとりは安心だ。この安寧が続くのなら少しの寂しさなんて構わないと思う。

 

ずっと誰かと、何かと競い合ってきた。負けたくない対象があった。一番になりたいというよりも、一番に近づきたかった。自分の引いたラインをこえたかった。選ばれたかった。勝ちたかった。ずっと基準が自分の外にあった。他人と比べた価値で自分を測っていた。

大人になって、安全な場所にいるこの環境を、生ぬるく感じる夜がある。誰とも比べられないことを幸せに、そして物足りなく思う。もう誰の一番になるとか考えなくていいし、相手が自分以外の誰かを見ているのではないかと不安になることもない。そういう感情を捨ててから、恋愛をするとかそんなのも分からなくなった。人と付き合う必要性がない。臆病の境地。もう恋愛をしたくない、よりも、もう好きになった人と別れたくない、の気持ちが強い。築くのには時間がかかり、壊れるのはほんの一瞬だ。まばたきの間に全てが終わってしまうこともあるのだと大人になって知った。つくらない、こわさない、そんな中途半端な毎日でもある程度楽しい。住んで一年も経たないこの町に吹く風が軽やかで息がしやすいと感じるのは、何も知らないからだと思う。知るというのは傷つくことでもあると理解してから学ぶことから逃げた。だらしないおとなだ。